延喜式神名帳にある「信濃国伊那郡小一座大山田神社」に比定されている神社である。
他には、「室町時代領主下條氏がこの地に正八幡宮と諏訪明神宮を祀った」とあり、なぜか八郎明神が諏訪明神に変わっている。諏訪明神を祭っているなら祭神は建御名方命(タケミナカタ)であろうから、いつ八郎明神に変わったのか、その経緯については全く触れられていない。正八幡は、八幡神を祀っているから祭神の応神天皇を祭っているのは変わっていない。
ただ、その時、大山田神社の鎮座地に祀ったのは八幡大神だけのようだ。「下條村史」は、諏訪明神も同じく祭ったであろう根拠として、この地方の歴史に詳しかった佐々木喜庵の「下條記」を呼んでいる。
が、大山田神社と八郎明神の記録は一切ない。
大山田神社とは関係ないが、まずは八郎明神について調べてみた。
伝説が元になっているなら、室町時代くらいから祀られているはずであるが、八郎明神の名が最初に出てくるのは、江戸時代中期になってからだ。
鎮西氏に伝わる「鎮西氏代数昔語清行」の条に、鎮西清行が元文6年(1741年)に卜部兼雄(吉田家)に提出した「大山田神社八幡宮記」が記載されており、そこには、こうある。
「本社一座 在伊賀良山麓平野林中所祭之神大己貴命也
八幡宮一座 所祭之神応神天皇也本社前左二間計
摂社一座 所祭之神建御名方命号諏訪大明神社去本社前右二間計
末社一座 号若宮八郎明神此則争朝之雷玉社也社北面
同 号五社大明神祭春日社四座併天種子命宮殿一社五戸社北面(以下略)」
大山田神社の境内に末社として雷玉社(八郎明神)が祭られているとある。雷玉社というのは聞かない社名だが、江戸時代中期に突然、登場する。現大山田神社の拝殿前左右に小さな社が4つあるが、これが元の八幡社と諏訪社と雷玉社と五社大明神社なのであろう。
どこかに祀られていたこれらの社は、その地の事情があって祀るのが困難になり、ここに祀られることになったのであろう。
「大山田神社八幡宮記」には本社・大山田神社とあるが、大山田神社の名が登場してきたのもこれが最初だ。
この時、神道管領長、卜部兼雄(吉田家)に提出した大山田神社并八幡宮記というのは先ほど記したものだ。
そして、大山田神社の祭神とした大国主命が祭られていたのは、菅野根ノ神としている。
根ノ神社は祭神の大国主命を現大山田神社に移した、とあるので、本来なら廃社されそうなものであるが、根ノ神には現在も大国主命を祭神とする根ノ神社があり、菅野部落の産土神とされている。
今の根ノ神社は南面が断崖となった不安定な場所に鎮座しているが、江戸時代には北方上の平坦部にあったといわれ、現在の社地は参道入り口であったそうだ。
恐らく、現在、藤本院のあるあたりにあったのであろう。
妄想すれば、現在地に移されたのは、現大山田神社に祭神を移された後ではないか。
早稲田というのは現大山田神社から6kmほど南の現阿南町にある地名で、そこには式外社の早稲田神社がある。「三代実録」の貞観15年4月5日の項に、「正六位上塩野神・和世田神に、並びに従五位下を授く」とあり、この和世田神が阿南町の早稲田神と思われる。和世田神は他にも論社が多くあるるが、鎮西の神主が指す早稲田といえば、普通に考えれば現阿南町にある早稲田神社を指しているだろう。(地図)
恐らく、鎮西清行が言いたかったのは、阿南町の式外社・早稲田神社を分祀したのが根ノ神社で、この根ノ神社の祭神・大国主命を八幡宮に移して祀ったのが今の大山田神社ということであろう。
ではなぜ、「下條村史」では「早稲田神は山田古池大明神」としたのか。これは、当時の早稲田神社の祭神が大山祇(オオヤマツミ)だったからであろう。
早稲田神社は、慶長20年(元和元年)(1615年)までは祭神は和世田神であったが、元和2年(1616年)以降は大山祇を祭神として社名も三島大明神と変わっている。
「下條村史」の著者は、三島大明神となっている現早稲田神社の祭神が大国主命となっているのはおかしいと考え、早稲田神社近くにあり、大国主命を祭神としている山田池大明神のことであろうとしたのではないか。
ただ、早稲田神社の祭神が大山祇になったのは、元和2年以降であり、その前は和世田神であった。恐らく、根ノ神社は早稲田神社が和世田神を祀っていた時代に勧請され、後に大国主命に変わったのであろう。
従って、現大山田神社に祀られているのは、元は和世田神と呼ばれた大国主命だと推測する。
(下写真の赤囲い部分が昔は開けていて田畑があった。右下の池が深見の池)
どうにかそこに至る道を見つけて行ってみれば、田んぼはあり、神主家と思われる空き家はあるが、山田古池神社というのはどこにあるのか分らなかった。
そこに、ちょうど目の前の田んぼを管理している方が来たので訪ねてみれば、すぐ後ろにあるという。振り向いてみれば、木々の中にボロボロの神社らしき建物がある。横を通り過ぎても分からないほど朽ち果てていた。(地図)
(地図の真ん中が古池明神。その上にあるのが廃屋となった神主宅)
その方の話によれば、今から60年ほど前までは、神社の前は桜の木が並んで村のみんなで花見をしていたという。調査報告書が40年ほど前のものだから、それからわずか20年ほどで廃されえたようだ。神主一家の家も今は廃屋になっており、子孫がいるのかどうかも分からない。
(地図ではなぜか津島神社となっている)