大山田神社の謎

大山田神社は長野県南部の下條村陽皐にある神社である。(地図)
01大山田神社

延喜式神名帳にある「信濃国伊那郡小一座大山田神社」に比定されている神社である。
延喜式では「オホヤマダノ」とルビがふってあり、今言われている「オオヤマダ」とはちょっと違うようだ。

神社前の由緒説明によれば、祭神は大巳貴命(大国主命)。相殿に応神天皇鎮西八郎為朝とある。
04大山田神社

実際、神社は社殿が3棟あり、向かって正面左の扁額には「八郎明神」とあり、右の扁額には「八幡宮 大山田神社」とある。
八郎明神は、鎮西八郎で知られる源為朝を祭った神社のようだ。


02大山田神社

03大山田神社

他には、「室町時代領主下條氏がこの地に正八幡宮と諏訪明神宮を祀った」とあり、なぜか八郎明神諏訪明神に変わっている。諏訪明神を祭っているなら祭神は建御名方命(タケミナカタ)であろうから、いつ八郎明神に変わったのか、その経緯については全く触れられていない。正八幡は、八幡神を祀っているから祭神の応神天皇を祭っているのは変わっていない。

神名帳考証(1733年)は何も分らなかったのか、祭神が大山祇(オオヤマツミ)と書かれているだけだ。
神明帳考証は、伊勢神宮大宮司の大中臣精長らが式内社を研究考証したものだが、現地へ赴いたり当時の神主と連絡を取っていたわけではなく、収集可能な情報のみで考えた結果だろうから、神社の名前から適当に考えたのだろう。

神社覈録(1870年)には「鎮西野村に在す」とだけあり、現大山田神社が鎮西野村にあったということしかわからない。

特選神名牒(1876年)には鎮西野村にあることに加え、祭神が大国主命であることが書いてある。恐らく、明治になって、古来の神社を神祇官に通達するよう知らせがあったはずなので、大山田神社からこのように返信があったのだろう。

明治神社誌料(1912年)には、祭神・大国主、相殿・応神天皇鎮西八郎為朝とあり、神明帳考証、神社覈録の他、以下の資料を呼んでいるが、どれも大山田神社ではなく、八郎明神についての記述が多く、大山田神社については鎮西野にあることしかわからない。

 神祇志料(1873年)「大山田神社、今鎮西野に在り」

 信濃奇勝録(1834年)「大山田神社鎮西の村にあり、此地往古よしか平と云。中古為朝の二男大島次郎為家伊豆を遁れ、三河国足助に至り、左兵衛射重長為家姉婿が許に忍居、後此地に来り、社司に身を寄せ女を妻とし、父為朝大島に配流によりて大島を氏とし、また為朝の霊を八郎明神と並祭、ゆえにいつともなく鎮西の村と呼とかや」

 名勝地誌(1901年)「下條村大字陽皐の遠州往還に在り、郷社にして鎮西八郎為朝の霊を合祀し、社地を鎮西野と称す。本祭神並に創建の年月共に詳らかならず。里人は単に為朝の社と呼び、痘瘡に罹れる者之を祈れば立ちどころに平癒すと言い伝え賽人少なからず、蓋し為朝会て疱瘡の神をはらひしとの俗説を信ずるが故なるべし」


これら一般的な資料からは何も分らないので、いつものように現地のローカル史を調べてみた。

では「下條村史」(1977年)を見てみよう。

「室町時代の初期、甲斐国武田氏の氏族下條氏がこの地に来り、富草の大沢の地に居城し、郷民に推されてこの地方を支配し、しだいに大をなすにいたり、数世を経てのち、小笠康氏猶子となって松本より来ってその後を嗣ぎ、文明年間、吉岡に居城するにいたったが、ついで居城の西方 蘆が平、すなわち現在の大山田神社の鎮座の地に源氏の守護神である八幡大神を勧請し、守護神として奉斎した」

富草の大沢の地というのは現大山田神社より2.5Kmほど南にある。大沢城跡があることから、当初はそこに下條氏が居城を構えていたのだろう。下條氏は初代瀬氏から五代目で断絶し、本家の小笠原氏から康氏を迎えて家督を継がせており、その際に居城を吉岡に移した。現大山田神社の東にある吉岡城跡がその地であろう。

ただ、その時、大山田神社の鎮座地に祀ったのは八幡大神だけのようだ。「下條村史」は、諏訪明神も同じく祭ったであろう根拠として、この地方の歴史に詳しかった佐々木喜庵の「下條記」を呼んでいる。

吉岡之御城地割方角ヲ定、八方ニ仏社ヲ建ツ、先西二当テ蘆カタイラニ御氏神正八幡并薬師堂御建立被遊為御城ノ鎮守ト、鎮西野ト名付

「下條記」は元禄年間(1688年~1704年)、現阿南町の庄屋・佐々木喜庵万木宇平太という人物の協力を得ながらまとめた豪族・下条氏の興亡の歴史だ。地元の古老の話や旧跡や古書を調べて史実に即した形でまとめた書物であり、信ぴょう性は非常に高い。

八方に寺社を建てたとあるから、諏訪明神を祭る諏訪社を建ててもおかしくはないが、それは現大山田神社の鎮座地ではなく、別の場所であろう。そして何らかの事情によって現大山田神社、当時の正八幡神社の境内に移設したということだ。

慶安元年(1648年)の棟札に「諏訪神社」を再造したこと、慶安2年(1649年)に「八幡宮」が徳川幕府から社領拾石を朱印地として寄進されたこと、貞享3年(1686年)の棟札に「八幡宮」の社殿を修復したと記されているため、江戸時代初期には、正八幡宮の他に、境内に諏訪神社があったのは確かだ。

が、大山田神社八郎明神の記録は一切ない。
大山田神社とは関係ないが、まずは八郎明神について調べてみた。

八郎というのは鎮西八郎と呼ばれた源為朝(1139~1170年)のことだ。源為朝の次男・大島次郎為家が伊豆を逃れて当地に至り、大島氏を名乗ったという伝説がこの地にはある。一般的には、伊豆大島の為朝の子孫は武蔵に移って小田原北条氏に仕えたと言われており、信州に移ったというのは伝説の域をでない。だが、伝説的な英雄・鎮西八郎為朝の子孫が移ってきたという伝説があれば、八郎為朝を祭る神社が作られても不思議ではない。
伝説が元になっているなら、室町時代くらいから祀られているはずであるが、
八郎明神の名が最初に出てくるのは、江戸時代中期になってからだ。

鎮西氏に伝わる「鎮西氏代数昔語清行」の条に、鎮西清行が元文6年(1741年)に卜部兼雄(吉田家)に提出した「大山田神社八幡宮記」が記載されており、そこには、こうある。

「本社一座 在伊賀良山麓平野林中所祭之神大己貴命也
 八幡宮一座 所祭之神応神天皇也本社前左二間計
 摂社一座 
所祭之神建御名方命号諏訪大明神社去本社前右二間計
 末社一座 号若宮八郎明神此則争朝之雷玉社也社北面
 同 号五社大明神祭春日社四座併天種子命宮殿一社五戸社北面(以下略)」

大山田神社の境内に末社として雷玉社(八郎明神)が祭られているとある。雷玉社というのは聞かない社名だが、江戸時代中期に突然、登場する。現大山田神社の拝殿前左右に小さな社が4つあるが、これが元の八幡社諏訪社雷玉社五社大明神社なのであろう。
どこかに祀られていたこれらの社は、その地の事情があって祀るのが困難になり、ここに祀られることになったのであろう。
05大山田神社

06大山田神社

07大山田神社

大山田神社八幡宮記」には本社・大山田神社とあるが、大山田神社の名が登場してきたのもこれが最初だ。
下條村史」には八幡宮だった神社を大山田神社と呼ぶようになった経緯が記されている。

「元文年間(1736~1741年)、時の鎮西八幡宮の神主・鎮西清行は、延喜式所載の古社・大山田神社が著しく衰退せるを嘆いてこれの復興に注意し、鎮西野にほど近き菅野根ノ神に祀られる大国主神を椿西に移し、これを大山田神社と定めて主神とし、八幡大神、諏訪明神を相殿に奉祀し、かねて作成した大山田神并八幡宮記一巻、および南部地方神主諸家の賛同調印書を神道管領長、卜部兼雄(吉田家)に提出してその承認を得た

とあり、神道管領家から出された承認を示す文書も残っているとしている。
この時、
神道管領長、卜部兼雄(吉田家)に提出した大山田神社并八幡宮記というのは先ほど記したものだ。

つまり、八幡宮の神主・鎮西清行が、古社の大山田神社の所在が分らなくなっているを嘆き、根ノ神社に祀られている大国主命八幡大神を祀っていた本殿に移して大山田神社と改名し、もともと奉祀されていた八幡大神を本社とは別に移したということだ。相殿としていないから、大山田神社と改名した当時は、八幡宮と八郎明神は別の社だったはず。相殿として再び本殿に祀られたのは、恐らく明治になってからであろう。

そして、大山田神社の祭神とした大国主命が祭られていたのは、菅野根ノ神としている。
根ノ神社は現大山田神社1kmほど東に現存している。(地図)

11根ノ神社

12根ノ神社

13根ノ神社

根ノ神社は祭神の大国主命を現大山田神社に移した、とあるので、本来なら廃社されそうなものであるが、根ノ神には現在も大国主命を祭神とする根ノ神社があり、菅野部落の産土神とされている。
今の根ノ神社は南面が断崖となった不安定な場所に鎮座しているが、江戸時代には北方上の平坦部にあったといわれ、現在の社地は参道入り口であったそうだ。
恐らく、現在、藤本院のあるあたりにあったのであろう。
妄想すれば、現在地に移されたのは、現大山田神社に祭神を移された後ではないか。

また、鎮西清行の一族と思われる鎮西清浜(1734~1808年)の遺稿・「下條古事考」には、

「堀田親所畑田ト云フ地、堀田大神根ノ神ヨリ鎮西へ移シ奉ル、親所トハ根ノ神ノ社地ヲ云フ」

とあり、根ノ神(子の神)に祀ってあった堀田大国神を鎮西に移し祀ったということなので、やはり根ノ神社に祀られていた堀田大国神を八幡宮に移し、祭神を大国主として、元々祀っていた八幡神と諏訪神を相殿に移したというのは確かなようだ。

また、同じく鎮西清行の一族と思われる鎮西清宜の書き残した「鎮西氏代数昔話」には、

「早稲田神が神社の初、それより菅野合原堀田初り、七野七原堀田の神大国尊を当社大山田神社に祭故」

とあり、堀田大国神はもともと、早稲田神としている。「下條村史」には、

「早稲田神とは山田池大明神を指すのだろう」

としているが、これには疑問がある。
早稲田というのは現大山田神社から6kmほど南の現阿南町にある地名で、そこには式外社の早稲田神社がある。「三代実録」の貞観15年4月5日の項に、「正六位上塩野神・和世田神に、並びに従五位下を授く」とあり、この和世田神が阿南町の早稲田神と思われる。和世田神は他にも論社が多くあるるが、鎮西の神主が指す早稲田といえば、普通に考えれば現阿南町にある早稲田神社を指しているだろう。(地図
21早稲田神社
22早稲田神社

恐らく、鎮西清行が言いたかったのは、阿南町の式外社・早稲田神社を分祀したのが根ノ神社で、この根ノ神社の祭神・大国主命八幡宮に移して祀ったのが今の大山田神社ということであろう。
ではなぜ、「下條村史」では「早稲田神は山田古池大明神」としたのか。これは、当時の早稲田神社の祭神が大山祇(オオヤマツミ)だったからであろう。
早稲田神社は、慶長20年(元和元年)(1615年)までは祭神は和世田神であったが、元和2年(1616年)以降は大山祇を祭神として社名も三島大明神と変わっている。
下條村史」の著者は、三島大明神となっている現早稲田神社の祭神が大国主命となっているのはおかしいと考え、早稲田神社近くにあり、大国主命を祭神としている山田池大明神のことであろうとしたのではないか。

ただ、早稲田神社の祭神が大山祇になったのは、元和2年以降であり、その前は和世田神であった。恐らく、根ノ神社早稲田神社和世田神を祀っていた時代に勧請され、後に大国主命に変わったのであろう。

従って、現大山田神社に祀られているのは、元は
和世田神と呼ばれた大国主命だと推測する。

ではこの山田池大明神は何かというと、「下條村史」では、「阿南町深見字東条の山田にある山田池明神が大山田神社の最初の鎮座地という説がある」としている。

大山田神社の最初の鎮座地については、「下条村睦沢山田河内説」「阿南町深見字東条の山田説」があるが、山田河内説は地元に伝承もないため候補から外してもよいだろう。そして阿南町深見字東条の山田にある山田古池神社山田池明神であり、大山田神社ではないかという説は、非常に信ぴょう性が高い。

延享元年(1744年)の竹佐領寺社改帳に、「山田池明神」とあり、鎮西清行が八幡宮大山田神社に改名した時点で存在していたようだ。

山田古池神社については、「下條村史」にはほとんど記載がないが、奇しくも1983年、国道第151号線改良工事に伴なう埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書のひとつ、「早稲田遺跡その2」に非常に詳しく書かれている。
阿南町には現早稲田神社を中心に、縄文時代後期から平安時代に至る遺構が多く残り、国道151号線を改良する際に、考古学的な調査を実施したようだ。

山田古池神社のある山田の地は部落の中心である深見からは離れており、千木沢渓谷を挟んで反対側になる。南側は山、北側は傾斜地だが肥沃な水田が多く、元々は本村は深見ではなく山田であったらしい。
この地に山田という屋号の神主家にあたる旧家が当時、一軒だけ残っていたらしい。調査報告書には、

「ここは最近まで古池大明神社があったが、現在、祭神は深見諏訪社に合祀され、物置となった拝殿に絵馬が残り、周囲の景観が往時をしのばせるだけである。山田古池大明神社がいつ頃からあったかは不明であるが、慶長年間(1596年~1615年)に存在していたことは旧記によって知ることができ、室町時代と推定される獅子頭も残っている。神社所在地が山田であり、祭神が大国主命であることから、ここを大山田神社の古地にあてようとするのである。古老の話では、山田池明神にあった大山田神社の古記録類は、故あって鎮西の神主家に譲られ、その後、大山田神社が式内社として鎮西に移し祀られたものだと伝えている」

とあり、山田という地にある山田古池大明神社大山田神社だと指摘している。
ただ、古記録が今の大山田神社に譲られたとあるが、今の大山田神社にはそんな記録はみられない。
その理由についても、調査報告書には書かれている。

「明治2年、太政官より、延喜式神明帳記載の諸国大小の神社はもちろんのこと、廃絶したものについても詳細に取り調べ、神祇官に届けるよう通達があった。深見村神主・松沢左近は、自分の奉祀する山田古池大明神は、もと湖水(深見の池)より三町上の森の中に大山田神社と号し、建御名方命を祭る諏訪神社と相並んで崇敬していたが、何時の頃よりか今の所へ移し祀った。それより地名を山田と呼ぶことになった。従って、式内大山田神社は現在の古池大明神より他にはないはず、と佐竹役所へ出願した。当然。元文年間に吉田家の承認を得ている鎮西大山田神社と懸かり合いになり、双方共にこれを証拠立てる資料に欠き、いずれとも決定することができなかった。神祇官に訴え出ることになると、莫大な費用を要するので、仲に人が入り、鎮西側より深見の左近に酒料として金拾五両を差し出し、左近が願い下げをすることで妥結したという経緯がある」

このような式内社争いというのは明治時代、日本全国で起こっていた。たいていの場合は、2000年近く前の資料など残っていないのでどちらとも決められず、両社とも勝手に式内社と名乗って現在に至っている場合が多いが、大山田神社の場合は、現大山田神社側がお金を払って譲ってもらったという形になるようだ。古老の話にある古記録を現大山田神社に譲ったというのはその時のことだろう。

元々、現大山田神社八幡諏訪を祭る神社であり、大山田神社とは何の関係もない。近くにあった根ノ神社大国主大山田神社の祭神として八幡諏訪と一緒に祀るようになっただけであり、現大山田神社が式内社の大山田神社であるというのは自称に過ぎない。
ならば、山田古池大明神の方が可能性としては高そうだ。
松沢左近の言によれば、山田古池大明神社は、深見の池より三町(300m)上(北?)にあったが、何時の頃からか今の所へ移って、その地が山田と呼ばれるようになったとある。深見の池より300m北には半僧山という山があるが、その山の中にあったが、それが深見の池から1kmほど南の今の地に移って山田と呼ばれるようになったと言っている。ならば大山田神社の旧地は半僧山にあったということになるが、ここの地形は享保3年(1718年)に発生した遠山地震により、地形が相当変わったようだ。
今ある深見の池も、元々はこの遠山地震により出来上がった池のようで、当時はこの地震により、七つの淵(池)が出来上がったと言われ、元々深見あたりにあった桜の木が1kmほど東を流れる天竜川の対岸に押し出されたともいわれている。
阿南町小野村(山田古池神社のあった山田の西)の享保3年に出された年貢の引高帳には54か所の崩落が発生したと記録されている、。
現大山田神社を祭る鎮西家の文書にも、

「四方の山を見渡せば大分はげ崩れ,地響きで谷が崩れ落ちた.大山田神社や龍岳寺が潰れ,新井から吉岡の集落で潰れた家が何軒かある。近くの田畑や山々もはげ崩れた」

というような記述があり、かなりの被害が出たようだ。
恐らく、深見の池を含む七つの淵は、天竜川の支流が現早稲田神社あたりから出ていたものが塞がれて池になったのであろう。そこら中で山体崩壊が起こっていたような状態なので、地形が当時とは大きく異なるであろう。さらに言えば、現在では七つの淵(池)は深見の池ひとつしか残っておらず。他は全て埋め立てられており、現在とも大きく異なっている。

大山田神社の最初の地は不明であるが、山田の地に移ってきたというからそこが旧跡地と考えてよいだろう。
調査報告書によれば物置となっているとあるので、実際にそこに行ってみた。
報告書の写真では、深見の池の南にある山の中腹に開けた場所があり、そこにあると書いてあるが、現在ではその場所は木々に覆われている。

(下写真の赤囲い部分が昔は開けていて田畑があった。右下の池が深見の池)
31深見の池 のコピー

どうにかそこに至る道を見つけて行ってみれば、田んぼはあり、神主家と思われる空き家はあるが、山田古池神社というのはどこにあるのか分らなかった。
45大山田古池神社

そこに、ちょうど目の前の田んぼを管理している方が来たので訪ねてみれば、すぐ後ろにあるという。振り向いてみれば、木々の中にボロボロの神社らしき建物がある。横を通り過ぎても分からないほど朽ち果てていた。(地図
(地図の真ん中が古池明神。その上にあるのが廃屋となった神主宅)
41大山田古池神社

鳥居のあった場所には、基礎台しか残っていないが、建物前の石碑には「大山田古池野神社」とある。

44大山田古池神社
42大山田古池神社

その方の話によれば、今から60年ほど前までは、神社の前は桜の木が並んで村のみんなで花見をしていたという。調査報告書が40年ほど前のものだから、それからわずか20年ほどで廃されえたようだ。神主一家の家も今は廃屋になっており、子孫がいるのかどうかも分からない。
43大山田古池神社

調査報告書によれば、ご神体は深見神社に移されたとある。深見神社は、今は諏訪神社として深見の池の東にある小高い丘の上、阿南大地威中学校の前に鎮座している。(地図
(地図ではなぜか津島神社となっている)
51諏訪神社
52諏訪神社

古池というわりには池らしきものはないが、神社前の田んぼを管理している方の話では、神社前の田んぼは水はけが悪く、機械を入れると沈んで動けなくなるので手で植えなければならないという。この神社前の田んぼは、かつては池だったのかもしれない。そこから水が流れ、北の肥沃な田んぼに水を供給していたのではないか。

妄想すれば、式内社・大山田神社大山田古池野神社、かつての古池大明神社であり、ご神体は今は諏訪神社に合祀されているのではないか。ただ、由緒などを現大山田神社に譲ったというのであれば、現大山田神社が引継いだともいえるので、現大山田神社が今では大山田神社と名乗っているのもおかしな話ではないのかもしれない。



住吉神社(壱岐)の謎

住吉神社(壱岐)は長崎県の壱岐島 芦辺町住吉東触にある神社である。(地図

延喜式神名帳」(927年)にある「壹岐郡 大一座 住吉神社」に比定されている。

(住吉神社)
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祭神は「底筒男神(ソコヅツノオ)」「中筒男神(ナカヅツノオ)」「表筒男神(ウワヅツノオ)」の三柱。相殿神として「八千穂戈神(大国主命)」を祭っている。

では、「芦辺町史」に載っている書物を時系列順に見てゆこう。

「日本三代実録(901年)」に、

「貞観元年正月二十七日「壱岐島従五位下海神、住吉神、兵主神、月讀神並従五位上」

とある。
貞観元年(859年)に壱岐島の海神(いまの白沙八幡?)、住吉神、兵主神(いまの本宮八幡と推定)、月讀神社(いまの筥崎八幡宮?)が、従五位下という神階を給わったというものだ。


「壱岐国続風土記(1741~1744)」には、

「壱岐神名品書云住吉四所大明神、壱岐神社社帖云須美与志住吉神社大神宝殿拝殿あり。古来鎮座年数忘れす延喜式に所載の神社なり延喜五年勧請なり」

住吉神社はかつて住吉四所大明神と呼ばれ、古来よりこの地に鎮座しており、延喜式(927年)に載っている神社である。延喜5年(907年)に、どこかの住吉神社から勧請された、ということだ。

勧請というのは神仏の分霊を他の地に遷して祭ることであり、この言葉通りとすると別の場所にあった住吉神社の分霊をここに祭ったということになる。

住吉神社といえば大坂にある住吉大社、下関と博多にある住吉神社が有名であるが、大坂と下関の住吉神社は三韓征伐の後に創建されたため、三韓征伐の帰路途中で壱岐に停泊した時に創建された壱岐の住吉神社が最も古い住吉神社であると壱岐の住吉神社は主張している。
ただ、博多の住吉神社は三韓征伐よりも古い、イザナギが黄泉の汚れから筒男三神を生んだその地が博多の住吉と主張していることから、博多の住吉神社の方が古いということになってしまう。

壱岐の住吉神社が「壱岐国続風土記」にあるようにどこかから勧請してきた、となれば、先の三社のいずれかから勧請してきたということになり、最初の住吉神社とは言えなくなる。
気になるのは「四所大明神」と呼ばれていたということだ。住吉といえば筒男三神を祀るのが普通であるが、大坂の住吉大社だけは筒男三神神功皇后を祭っているため四神が祭神となっている、「延喜式神名帳」でも、摂津国住吉郡に「住吉坐神社四座」となっている。
勧請してきたとなれば、大坂の住吉大社からの勧請の可能性が高そうだが、神功皇后崇拝の念の高い壱岐で神功皇后を省いて大国主を祭ったとは思えない。


神功皇后の三韓征伐は公式には年代不明だが、日本書紀の神功皇后の項にある

「新羅王都に攻め入って王子を人質にした」

という記述と、高麗の史書である三国志記にある

「402年に新羅の王子が倭国の人質になった」

という記述、中国吉林省で見つかった好太王碑にある

百残(百済)、新羅、もとこれ属民にして、由来朝貢す。而しかるに倭、辛卯年(391年または331年)を以て、来たりて海を渡わたり、百残(百済)・■■・■羅らを破ぶり、以て臣民と為なす

という記述が三韓征伐を示すのであれば、4世紀頃の話であり、905年に勧請されたというのであれば神功皇后の三韓征伐とは何の関連もないことになる。

そもそも延喜五年(905年)に勧請されたとなると、「日本三代実録」に書かれている貞観元年(859年)に従五位下を給わった住吉神社とは別の神社ということになる。恐らく、「壱岐国続風土記」は現在の住吉神社とは別の神社が「住吉神社」だったと言っているのであろう。


「壱岐神社明細帖(1873年)」第一巻には、

「旧平戸藩崇敬全国七社ノ其一、ただし、式内国弊中社兼郷社、氏子百六十二戸。当社御鎮座ノ事、神功皇后三韓征伐御凱旋陣の御時鎮座ナシ給フトコロ也、古老伝社記、神功皇后三韓御征伐ノ御時住吉大神壱岐国御津浦(半城邑にあり)二御着岸ナシ給フ故ニ時人其処ヲ名付テ御津ト云 住吉大明神ハシメ此浦ニ鎮座マシマシカト故アリテ今ノ社地ニ遷座ナシ給フト」

とある。
住吉神社は神功皇后の三韓征伐に勝利した帰陣の折り、住吉大神が壱岐島の御津浦というところに着岸して鎮座したけど、その後いまの場所に遷座した、というものだ。
ただ、神功皇后の三韓征伐の頃、底筒男神、中筒男神、表筒男神の三神は「住吉大神」とは呼ばれていなかったので、筒男三神の神が御津浦にやってきて一休みし、その後、いまの場所に鎮座したということか。こちらには勧請年についての記載はない。


「芦辺町史」から呼ばれている書物は以上の3つであるが、補足として以下の記述がある。

「神功皇后三韓征伐の時、住吉大明神が出現し、味方を守って勝利に導いたので皇后は凱旋の折り、御津浜に上陸され、住吉大明神を祭られた。しかし、波の音が聞こえない所に映りたいとの神託により当地に遷座となった。そうして、臣安倍介麿に壱岐を賜い、住吉大明神に仕えさせた。(中略)延喜式神名帳のまま社号、祭神など変遷することなく時を経ていたので、延宝の改の査定にも何ら疑いを入れることなく認められた」


これは「壱岐神社明細帖」の記載を補足したもので、遷座した理由としては「波の音がうるさいから」ということらしい。
そして、壱岐の神社では珍しく、橘三喜の延宝の改と壱岐の神官たちとの意見が一致して、当社が延喜式神名帳にある「住吉神社」となったということだ。
海の波がうるさいから、という理由は「住吉神社社記」の記述を記したものだ。
住吉神社の「社記」には以下のようにある。

「皇后凱旋の時、御津浜に上陸し、足形を石面に残し、そこに祀られた。 後に、神託によって、「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり、現在地に遷座したという。その後、皇后の臣、安部介麿に壱岐を賜り、住吉大神に仕えさせた」

ただ、神功皇后が上陸した地という伝承は壱岐には多くある。
本宮八幡筒男三神を祭って三韓征伐に赴き、帰路に再びこの地に戻った時に、神託を受けていまの地に遷座し、本宮八幡には兵主神社を祭ったという話や、現兵主神社のある川北ノ庄を下った浦で順風を祈る祭祀をし、凱旋の折りに神社を創建したというものだ。
だが、前者であれば、筒男三神を遷座した後に本宮には兵主神社を創建して再び筒男三神を祀ったことになり矛盾する。恐らく、兵主神社の項でも説明したように、兵主神社は後に筒男三神ではなく、神功皇后を祭ったのであろう。
それでも、波の音がうるさいから内陸に遷座した理由が分からない。
後者の場合は、川北ノ庄(川北村)を下った浦といのがいまは存在しない。ただ、壱岐はかつて、2つに別れていたという伝説がある。川北村の南を流れる幡鉾川はかつて海だったという伝承もある。
恐らく、かつて幡鉾川は干潮時には陸地になるような、壱岐島を2つに分かつような遠浅の海であったのだろう。
幡鉾川は鉾の木山を水源とし、そこからまず西に流れ、住吉神社の南で南に流れを変え、その後、東西に別れる。東西に別れた川の周りには、津神社や角上(津ノ上)神社、河原神社、深江神社といった大河や海を連想する神社が多い。
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妄想すれば、かつて幡鉾川は満潮時には国を2つに分かつような湾になっていたのであろう。平安時代の前期はいまよりもかなり海面が高かった。そして、幡鉾川もいまよりずっと川幅が広く、住吉神社の近くを流れて海につながっていたのではないか。そして、時が流れていつしか海面が下がり、幡鉾川も水量を減らしてしまい、壱岐を2つに分かつような大河ではなくなったことで、住吉神社は海から遠くなった。
つまり、神託により波の聞こえない地に遷座したのではなく、地形の変化で海より遠くなったことを、そのような伝承で補ったのではないか。


では、他の書物も見てみよう。
「壱岐神社誌(1864年)」では、

「当壱岐国は往古三韓交通の要衝に当たり、動もすれば敵国襲来の門口なれば神功皇后三韓征伐御凱旋の途次、舟帥を当国に駐め給ひ、鎮護の神として住吉大神及び八千戈神(大国主神)を親祭あらせられ、敵国降伏のため軍越神事を定め、その臣阿倍介麿を駐め祭祀の料として壱岐一国を賜ひ、永く祭事を司らしめ給ふ。(中略)社記に曰く、神功皇后三韓征伐の時、住吉大神壱岐国御津浦(柳田村半城)に着岸し給う、故に時の人、その所を名付けて御津と言う。則ち御足形御津の浜及び御津辻の石面にあり。また曰く、住吉大神はじめはこの浦に坐々せしが(御津八幡社を旧社地と伝う)、三韓征伐の時、大風波甚だしければ波の音を不聞と今の社地に遷座し給う」

とあり、「壱岐神社明細帖(1873年)」や「社記」をまとめて、壱岐国自体が住吉大神の氏子であると大げさな書き方をしている。
現在、島内では住吉神社はかなり重要な神社であるという認識でいるようだ。
ただ、記述の大半は、軍越神事という特殊祭事の紹介に費やしており、神事を後世に遺そうとして記載しているようだ。


では、島外の史料はどうか。

「神名帳考証土代(1813年)」は、扶桑略記(12世紀後半)」を呼んで、

「延喜18年10月15日、太宰府解、壱岐島言上、西南に彗星二三夜見ゆ。手長比売明神社、住吉明神社、大鼓の如く鳴動。御体美石、宝殿より出て地上にあり。高御祖明神社内が騒がしくなり、炎光が東に飛び去る。古老曰く、島内の戦乱の前兆」

延喜18年(918年)に壱岐島で怪異があったと朝廷に報告があったようだ。
この時代は丁度、朝廷は菅原道真の怨霊に悩まされた時期であり、このような怪異に敏感だったのかもしれない。


「太宰管内志(1841年)」は、

「住吉神社住吉村に在り。鯨伏村の内なり。祭神底筒男中筒男表筒男三神」

とある。これもおかしな記述だ。住吉神社は住吉村にあり、それは鯨伏村の中にあると言っている。
鯨伏村は住吉村の西で、本宮八幡のある村だ。どういう意図でこのような記述になったのか分からないが、本宮八幡住吉神社だということを遠回しに言ってるのだろうか?

島外の史料では情報も錯綜し、大したことは書かれていないようだ。

橘三喜も島内の神社関係者も疑いなしというように、延喜式の住吉神社は現住吉神社である可能性が高そうだ。
だが、住吉神社住吉神社と呼ばれたのは、神功皇后が三韓征伐から近畿に戻られた時に、住之江の地に「大神」を祭ったのが最初だ(現大坂市の住吉大社)。「住之江」は澄んだ入り江というような意味で、それが「住みの吉(え)」に転じて住吉となった。
住吉大社に伝わる「住吉神社神代記(702年)」の冒頭は気になる書き方がしてある。

「座玉野国渟名椋長岡玉出峡墨江御峡大神 今謂う。住吉群神戸郷墨江住吉大神」

玉野国(不明)、渟名椋(ぬなくら)の長岡の玉出の峡の墨江の御峡に座す大神を、今、墨江の住吉大神という、とあり、これは「今は墨江の住吉大神というけど、もとは玉出の峡(谷、または水路)の墨江の御峡にいた大神だった」ということだ。

「日本書紀」では、筒男三神が、荒魂を穴門の山田邑に祭り、和魂を大津の渟中倉に祭るよう指示している。穴門は長門、今の山口県であり山田邑は下関にあると言われており、長門の一宮である住吉神社がそれに比定される。
和魂を祭った渟中倉という地名は不明だが、大津(大きな港)とあることから、ここが大阪にある住吉大社と言われている。

「摂津国風土記」逸文にも、住吉(すみのえ)の由来として、気長足姫(神功皇后)の御代、住吉大神が姿を現し、沼名椋(ぬなくら)の長岡の崎まで来られ、「住むのに一番良い土地(真住み吉き住み吉き国)ととなえととをなさったので、そこに住吉大神を祭る社を定め、それがスミノエの由来であるとある。
つまり、「住吉神社神代記」でいう墨江の住吉大神だ。

だが、「住吉神社神代記」の後半には、神功皇后が新羅からの帰途、筑紫の橿比宮(香椎宮)にいましたとき、筑紫大神が皇后に「我が荒魂を穴門と山田邑にまつらしめよ」と教えたとある。
また、表筒男命、中筒男命、底筒男命、三所大神の割注に「今、墨江御峡大神と謂い、たたえて住吉大明神と称すなり」と記されており、「今」は住吉大明神と呼ばれているとあり、以前はそう呼ばれていなかったと読める。
ではなんと呼ばれていたのか。「住吉神社神代記」にあるように、それは筑紫大神であろう。
筑紫大神は、筑紫(今の福岡県)の地主神だ。
そして、スミノエで姫神を祖霊として祀っていた津守氏が、筑紫大神を祭る神社の祭祀を司ることになった。津守氏は住吉大社の祭祀を司っている氏族だ。


妄想すれば、神功皇后が三韓征伐の折り、筑紫大神の助けを借りたと言うことであろう。ただ、それは神ではなく人ではなかったのではないか。
壱岐の聖母宮に伝わる「聖母縁起(しょうもえんぎ) (1338年)」には、三韓征伐の軍勢として、

「大将軍・住吉大明神、副将軍・高良大明神、河上大明神、諏訪大明神、宝満大明神、三島大明神、熱田大明神、所謂六将軍がこれである。都合三百七十五人なり」

とあり、この中で、高良、宝満(竃門)は九州の式内社である。
つまり、これはそれぞれの神社の名を冠した大将であり、各地方から集められた軍団であろう。
筒男三神(住吉大神)は神功皇后に三韓征伐を勧めた張本人(神)であることから、恐らく百済か新羅から逃亡してきた将軍であろう。彼が扇動し、三韓征伐を成功させたことで、筒男三神と彼を庇護していた筑紫の有力者が神として祭られたのではないか。筑紫の神は穴門の山田邑(山口県山田邑)と大津の渟中倉(大阪のスミノエ)に、筒男三神は玉野国の渟名椋へ。玉野国というのは日本にはない地名である。ならば、それは三韓征伐で奪還した朝鮮半島であろう。当時、朝鮮半島には任那と呼ばれる日本の領土があった。そこに封じられたのではないか。
しかし、時代が下ると大和朝廷のお膝元であるスミノエに地方神を祀るのは憚られ、三韓征伐を導いた筒男三神イザナギの眷属とされ、スミノエに祭られたのではないか。

話を壱岐に戻そう。
そうなると、壱岐の住吉に祭られていたのも筑紫大神であろうか? いや、筑紫大神が人だとすれば、壱岐で祭ったのはやはり三韓征伐の航海の安全を願って祭られた神であろう。
そうなると、航海の導となったオリオン座の三つ星を擬神化した筒男三神

そして後世にスミノエに祭られた筑紫大神「日本書紀」筒男三神に代わり、スミノエで姫神を祀っていた津守氏が筒男三神と津守氏の祖霊である姫神をまとめて住吉大明神という名前に変えた時、穴門の山田邑に祭られていた筑紫大神はそのまま筒男三神に変わったが、壱岐の筒男三神住吉大社とは別の筒男三神を祭って従五位上の神階をもらっていたので別の神に変えることはできず、905年に朝廷の指示住吉大社と呼ばれるようになった大津の渟中倉(大坂の住吉)の住吉大社を延喜5年(907年)に勧請したのではないか。
住吉大社で祭られる神は筒男三神と姫神の四神なので、壱岐では経緯を知らぬまま、四神が祀られているから「住吉四所大明神」と呼んだのだろう。
そして後世になって、住吉神社で姫神(津守氏の祭る神)が祀られているのは変なので、理由を知らぬまま八千戈神(大国主命)を相殿神に変えたのではないか。

つまり、壱岐の住吉神社は確かに筒男三神を祀る神社としては最古だったのであろう。ただ、その神社は廃れたことで、住吉大社から勧請してできたのが、今の住吉神社であるなら、既に元の神を祀った神社ではなく、大坂の住吉大社の分霊を祭った神社であり、最古の住吉神社とは呼べないのではないだろうか。


兵主神社の謎

兵主(ツハモノヌシ)神社は長崎県の壱岐嶋 芦辺町深江本村触にある神社である。(地図

延喜式神名帳」(927年)にある「壹岐郡 大一座 兵主神社」に比定されている。

【兵主神社】
兵主神社1
兵主神社3
兵主神社2


祭神は「素戔嗚尊(スサノオ)」、「大己貴神(オオナムチ)」、「事代主神(コトシロヌシ)」の三柱。


芦辺町史」には各書の記載が載っている。記載されている書物は時系列がバラバラなので古い順に見て行こう。

松浦隆信押字、鎮信花押の永禄十年(1567年)四月の棟札に

王宮神殿奉造立当社山王三十七社造営畢云々

とあり、松浦信実花押の慶長八年(1603年)四月の棟札にも、

奉再興日吉山王三十七社鎮護国家霊場也

とあるように、「日吉山王三十七社」として社殿再建ごとに国主より白銀5枚の寄進があったという。

これは橘三喜の延宝の改以前の棟札の紹介であり、延宝の改以前は山王社と呼ばれていたようだ。
そしてその山王社がどこから勧請されてきたかは、「壱岐国神社帳(1692年)」に記載がある。、

当社ハ所謂干延喜式壱岐二十四社其一社也、山城国日吉山王ノ分神也先是嵯峨天皇草創云々

とあり、橘三喜の延宝の改で兵主神社となったが、その前は山城国から勧請してきた「日吉山王神社」が祭られていたと言っている。
壱岐国神社帳」は橘三喜の延宝の改から16年後に国命により壱岐の神主代表・吉野尚次が藩の改め役と共に壱岐の神社を調査したものであるが、藩命で調査した橘三喜の結果に疑問を呈しているようにも見える。
1692年といえば橘三喜はまだ存命で、日本中を旅しながら彼の代表作である「諸国一宮巡詣」を執筆している最中である。橘三喜の延宝の改に不満があるものの、既に藩主のお墨付きをもらっているので余り否定的な意見がいえないのでこんな書き方になったのであろう。

同じようなことが「壱岐神社誌(1864年)」にも書かれている。

「兵主神社と社号が見えるのは、元禄四年(1691年)2月に国主源任が御旗二流を寄進になった箱書きにあるが、延宝七年(1679年)が最初であるとも言われている」

また、「壱岐神社誌」は、

「当社の前半は大己貴命を祭神とする日吉山王権現にして、式内の某神社なるべく、延宝四年(1676年)以後に及びて兵主神社と社号を改められ給ひしものとす。而して、其祭神は延宝改以前の日吉山王のそれを奉齋して兵主のそれには改めざりしものとす。式内名神大兵主神社の祭神は本宮八幡神社のそれにまします事言を待たざる所也」

ここでは橘三喜の延宝の改(1676年)以降にしか「兵主神社」と呼ばれていないと言っており、祭神として祭られているのは日吉山王の神であり、本来の兵主神社の神ではない。兵主神社は本宮八幡であると言っている。

さらに「名勝図誌(1861年)」では、

「比叡山より村の卯辰(東と東南東との間)の海浜一の瀬に着御し、谷山(現京徳の丘がこれである)とう所に居たり鎮座となった。これが日吉山王権現であり、お供してきたのは京徳、甫久、大宝の三氏で各社家となったものである(中略)」

とあり、日吉山王が勧請されてきた理由までしっかりと書かれている。
ただ、勧請の理由まで言及してあるのは「名勝図誌」だけであり、情報ソースがどこなのかは分からない。

しかし、「神社明細帖(1873年)」では、

「兵主神社、式内、但平戸藩殊更崇敬セラル壱岐十八社ノ内其一社(中略」)」

とあり、橘三喜の延宝の改を受け入れて当社が兵主神社であると言ってしまっている。
これは「神社明細帳」が社格を決定するために、神祇省から地方庁に神社の調査を命じた結果であるため、社格を高くするために、当時の宮司が式内社であることを断言したのであろう。

以上が「芦辺町史」の記述だが、この神社も壱岐の他の式内社と同じく、橘三喜の延宝の改(1676年)以前と以後で神社名が異なるようだ。


延宝改以前は「日吉山王三十七社」と呼ばれていたようで、嵯峨天皇の時代(786年~842年)に日吉山王権現(比叡山にある日吉神社)より勧請したようだ。そして延宝の改以後に兵主神社と呼ばれるようになったのだが、ここにもまた紆余曲折がる。
当初、橘三喜は当社を「聖母神社」としていた。そして現聖母神社を「兵主神社」としていた。
しかし、延宝七年(1679年)、延宝の改の査定を遺憾として吉野末裔が「壱岐国神名記(1679年)」を著して異を唱えた。橘三喜の延宝の改は国主・松浦氏にお墨付きをもらっており、それに異を反するというのは相当の覚悟で臨んだのであろう。
壱岐国神名記」では「兵主神社」は現「本宮八幡」であるとしている。橘三喜が「兵主神社」としたのは現「聖母神社」なので、そのように糺したのであろう。
本来なら処罰されそうなものだが、何と松浦藩はその申し出を認めた。が、橘三喜が「兵主神社」としていた神社は「聖母神社」に戻ったが、「本宮八幡」は「兵主神社」とはならず、当社がそのまま「兵主神社」となった。
壱岐国神名記」では「兵主神社は現「本宮八幡としているが、それは認められなかったということなのか、理由は不明だが、当社は「兵主神社のまま現在に到っている。

そもそも「聖母神社(現聖母宮(しょうもぐう))」は「延喜式神名帳」には記載がない。つまり、延喜式が成立した延長5年(927年)には他の神社ほど崇敬されていなかったか別の名前で呼ばれていたと思われるが、なぜか橘三喜は式内社調査の折りにわざわざ「聖母神社」を壱岐の二ノ宮としている。
当時の壱岐では聖母神社、本宮八幡、箱崎八幡、筒城八幡(現白沙八幡)の崇敬が高かったようだが、橘三喜は当時大社だったこの内の八幡3社を式内社に比定しなかった。式内社が八幡と合祀されるはずがない、という根拠の不明な理論が橘三喜の中にはあったようで、吉野氏や後藤正足が橘三喜の改を不満としたのも、この橘三喜の根拠無き根拠が一因なのであろう。

やはり、橘三喜による延宝の改は壱岐の神社関係者には受け入れ難いものがあったようだ。
壱岐の神職の家に生まれた後藤正足は、壱岐島内に残る式内社を中心に主要神社の由緒や祭祀歴などを記録した「壱岐神社誌(1864年)」を発行した。
そこには「兵主神社」の記載はなく、「本宮八幡」の旧称が「兵主神社」であり、旧記(古書や古い記録など)にも「本宮八幡」が「兵主神社」とあるとしている。
後藤正足が著した「壱岐神社誌」は各書物を挙げて、「本宮八幡」が「兵主神社」であることを力説しているが、これも少々疑問が多い。時系列順に見てゆこう


以下は「壱岐神社誌(1864年)」による。

壱岐国神社考(1772年)」より、

聖母縁起に曰く、本宮八幡宮、中住吉大明神、左誉田尊、右息長帯姫尊なり。神功皇后三韓退治の時、住吉大明神出現ありて神力を添え給うゆえ、当社住吉神社を兵主神社と號す

とある。
聖母縁起(しょうもえんぎ)」とあるが、正確には「聖母縁起」と呼ばれる史料は2種類ある。いずれも聖母神社(現聖母宮(しょうもぐう)。橘三喜が兵主神社に比定した神社)に伝わる縁起で、ひとつを「壱岐香椎聖母宮縁起」、もうひとつが「香椎聖母宮記」である。ここで呼ばれている「聖母縁起」は名前からして前者を指すと思われるので「壱岐香椎聖母宮縁起」を「聖母縁起」とするが、この縁起に「本宮八幡」が「兵主神社」であると記載してあるとは到底思えない。
というのも、この縁起については写本などが出回っていないのか、「神道大系」や「宗教と文化」に載っている個人論文くらいしか内容が記載されている資料がなく、いずれも抜粋されているので全容は分からないのだが、基本的に「聖母縁起」に記載されているのは「日本書紀」に加筆したような内容で、天地創造から弘安4年(1281年)までの歴史が書かれているという。そこに、「住吉神社」が「兵主神社」であるとか「住吉神社」が「本宮八幡」であるというような記述があるとは思えない。

聖母縁起(1338年)」は「延喜式」を除けば壱岐の情報が記載されている最も古い史料であり、聖母神社の宮司・吉野末茂が朽損に瀕していた古伝本を「繕書した」ものだと末尾に書かれている。
だが、行間や欄外に朱筆の書き入れが多いことから、「神道体系」では「写本ではなく、日本書紀と内容を揃えるために補ったもの」だとしている。実際、「聖母縁起」の大部分は「日本書紀」の本文をそのまま引用しているようだ。ただ、「日本書紀」には記載のないオリジナルの部分もあるようで、それは熱田神宮に伝わる「熱田太神宮縁起」と同じであろう。「神道体系」はオリジナル部分を「荒唐無稽」と断じながらも、神功皇后への信仰を心情にしたあらわれであるとして、神功皇后の伝説を取捨選択して加筆した改訂本であろうとしている。

聖母縁起」の全文を確認することができないため、「壱岐国神社考」に書かれている内容については肯定も否定もできないが、もし、記載されているのならば、「本宮八幡」はかつて「住吉神社」と呼ばれ、後に「兵主神社」となって「本宮八幡」になったことになる。
「延喜式」には「兵主神社」とあるので、延喜式が書かれた頃(927年)には「兵主神社」と呼ばれていたことになる。

しかし、「壱岐神社誌」には、以下のような記述もある。

「延暦七年(788年)、異賊襲来により、壱岐島五社勧請あり、本宮、箱崎、筒城の三八幡と印錀、聖母これにして当社はその一なり」

つまり、本宮八幡、箱崎八幡、筒城八幡(現、白沙八幡)、印錀神社、聖母神社は788年に異国(恐らく国交断絶していた新羅)襲来があったので、どこかから勧請してきたと言っている。
ただ、延暦七年(788年)、異賊襲来というの怪しい。この時代、異賊といえば朝鮮半島を支配していた新羅のことを指すと思われるが、既にこの時代は新羅の末期でとても海外に遠征してゆくだけの余裕はない。779年には飢饉によって大量の新羅人が日本に亡命したくらいだ。
従って、異賊襲来というのは眉唾であろう。そもそも、異賊襲来の守護として祭るなら、役所の鍵を神格化した印錀神社を勧請するというのはお門違いである。
恐らく、大量の新羅人が亡命してきたと時を同じくして朝廷より八幡を勧請するよう命令がきたため、異賊襲来のためと誤認したのであろう。印錀神社聖母神社は、たまたま同じ時期に「勧請」されただけではないか。

壱岐節用集(?年)」や「壱岐国続風土記(1741~1744年)」には「宇佐大神」を勧請したとある。「宇佐大神」は「宇佐神宮」のことだろうが恐らく本宮八幡に勧請された八幡宇佐神宮の八幡で、箱崎八幡に勧請された八幡は福岡にある「筥崎八幡」であろう。経緯は不明だが、ほぼ同時に「筥崎八幡」の近くにある「香椎宮」と「印錀神社」も勧請されたのではないか。

そして、橘三喜の査定が間違いであるとした決定的な証拠を突きつけている。

「「壱岐国神社考」には、「兵主神社」は延喜式神名帳では「壱岐郡」に属しているが、橘三喜が調査した延宝4年(1676年)より前の承応年間(1652年~1655年)以前は、「兵主神社」のある川北邑は「石田郡」に属していた」

とあり、これは「壱岐国続風土記(1741~1744年)」にも、川北村にある阿弥陀堂の棟札に「石田郡川北村」と記載があることから間違いないであろう。つまり、橘三喜はわずか20年前に川北村が石田郡に属していたことすら調べていないことになり、その調査方法がかなり杜撰なものだったと分かる。 


では壱岐で著された他の書物も見てみよう。

壱岐嶋式社沿革考(1870年)」より、

「兵主神社縁起に曰く、大日本豊秋津洲西海道蓬莱壱岐国萬代の壱岐郡風早郷本宮村兵主神社戌亥向、底筒男、中筒男、表筒男を祀る所なり。中昔、神功皇后、応神天皇を相殿に奉り、八幡宮と称す」

とあり、いままで登場しなかった「兵主神社縁起」を根拠に、「本宮八幡」が「兵主神社」だとし、祭神は底筒男、中筒男、表筒男だと言っている。

この「兵主神社縁起」というのが何なのか。てっきり「本宮八幡」に「兵主神社縁起」が伝わっているのかと思ったが、当の本宮八幡にある由緒板にも、「壱岐嶋式社沿革考に書かれている」と書いているから「本宮八幡」に伝わっている縁起ではないのだろう。
そもそも、「兵主神社縁起」が存在しているのなら、もっと前に成立した「壱岐国神社考(1772年)」や「壱岐国続風土記(1741~1744年)」にも出てきそうなものだが、「兵主神社縁起」が登場するのはこの「壱岐嶋式社沿革考(1870年)」だけなのだ。「壱岐神社誌(1864年)」の引用書物一覧にも、「兵主神社縁起」というのは見えない。
壱岐嶋式社沿革考」は吉野光胤、後藤正恒の共著だが、二人とも壱岐島出身で後藤正足と同時代の人物である。「壱岐神社誌」でなぜ「兵主神社縁起」を引用しなかったのかは分からないが、正足が資料的価値を見いだせなかったと見るべきであろうか。

壱岐神社誌」は、各書物を読み解いて、「本宮八幡」を「兵主神社」としているものが多いので、もはや疑うことはないであろう、と結んでいる。

壱岐の吉野氏や後藤は力説しているが、島外の史料はどうなっているのかを見ると、こちらも混乱しているようだ。


太宰管内誌(1841年)」(402コマ)は、

「祭 大己貴命 素戔嗚尊 事代主命 也 と見えたり」

とあり、これは「日吉山王」を祭った現「兵主神社」を指しており、「本宮八幡」のことには一切触れていない。

神社覈録(1870年)」(580コマ)では、

「祭神は素戔嗚尊(壱岐略誌では大己貴命だがいまは従っていない)、川北村に在す。土俗日吉山王と称す(式社考)。三代実録、貞観元年正月廿七日甲申、壱岐島従五位下兵主神社、従五位上を授け奉る」

とあり、「本宮八幡」のことには触れず、橘三喜の延宝の改で比定された現「兵主神社」を「兵主神社」としているが、なぜか祭神は素戔嗚尊大己貴命は祭られていないとしている。
「神社覈録」より前に著された「太宰管内誌」でも、後に著された「特選神名帳」でも大己貴命を祭っているとあり、現「兵主神社」でも大己貴命は祀られているのに、なぜか「神社覈録」だけは大己貴命は祭られていないとしている。
神社覈録」は江戸末期の神官にして国学者の鈴鹿連胤が30年の歳月を掛けて記した書物で、多くの神社を私見を交えず、調べた書物の内容を簡潔に記した見やすい誌料だが、引用諸書の中に偽書とされるものが混じっているのが玉に瑕である。このため、何か別の誌料を参考にしたのであろう。

特選神名牒(1876年)」(451コマ)では、

「式社所名徴には川北村にあり、壱岐廿四座記もは本宮村にある(承応社記、吉野公光記、神社考、式社略考も同じ)とあり、神社考に川北村は昔は石田郡に属して壱岐郡ではない。式社所名徴に記すように、旧記では本宮邑にあるとあり、兵主神社縁起にも、壱岐郡風早郷本宮邑兵主神社戌亥向云々とあり、本宮八幡が兵主神社のようだ。延宝の調に橘三喜は川北邑の日吉山王を兵主神社としたが、神社明細帳や長崎県式社記では深江邑にあるとなっており、今後の調査が必要である」

とあり、「壱岐神社誌」の内容を肯定的にしながら、史料によっては深江邑になっているものもあるから、今後もっと考察する必要があるとして結んでいる。

「兵主神社」は「延喜式」では名神大社になっている。壱岐島内には24の式内社があり、名神大が7社もある。名神大の規模を考えれば、古来より尊崇されていた「本宮八幡」を式外とする橘三喜の考えにはやはり賛同できない。「本宮八幡」を「兵主神社」と比定する後藤正足らの意見の方が納得できる。彼らが根拠としている誌料が現在はほとんど確認できないため、疑わしいところもあるが、妄想すれば、やはり「本宮八幡」が「兵主神社」である可能性が一番高いように思う。

【本宮八幡】
本宮八幡1
本宮八幡2

本宮八幡」の祭神は中「住吉大神」、西「八幡大神」、東「聖母大神(神功皇后)」としている。

西の八幡大神は788年に宇佐八幡から勧請してきた八幡大神であろう。聖母大神聖母神社から勧請してきたと思われるため、元々祭っていたのは住吉大神になる。
しかし、ここで疑問が残る。「本宮八幡」が「兵主神社」であれば、それは三韓征伐の際、兵を率いた神功皇后が祭神であるべきだ。恐らく、橘三喜もそう思ったから、神功皇后が祭神となっている「聖母宮」が「兵主神社」だと考えたのであろう。「住吉大神」を祀るなら、「兵主神社」ではなく「住吉神社」にすればよい。わざわざ「兵主神社」にしてあるということは、住吉大神ではないのであろう。


妄想すれば、「本宮八幡」の本来の祭神は神功皇后であろう。では「聖母宮」に祭られているのも神功皇后かというとそれも怪しい。

先に述べた「聖母縁起」の冒頭には、こんなことが書かれている。

「聖母宮とは、天地が始まる最初に、天地の中になりし神である。号して国常立尊という」

国常立尊(クニノトコタチノカミ)は、「日本書紀」や「古事記」に出てくる原初の神である。「日本書紀」では「天地開闢の際に出現した最初の神」としており、「古事記」では「神世七代の最初の神」としている。ちなみに神代七代の最後の神が伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)である。
また、「宗教と文化」で「壱岐香椎宮聖母縁起」を調査した増田早苗氏は、論文最後の追記で現聖母宮の宮司の吉田氏に話を伺った時、「我々は神代以後の人間は拝まない」という発言を聴いたと書いている。

従って、現「聖母宮」に最初に祭られていたのは国常立尊である。いや、国常立神は「日本書紀」が出来てから、「日本書紀」になぞらえて神の名を当てただけであろう。恐らく、最初は土着の神を祀っていたはず。それは、壱岐の正史が始まる前、渡来人が住み着き始めた頃まで遡るであろう。そこで祭られていたのは、「しょうも」と呼ばれていた神だろう。
妄想すれば、それは「生物(しょうもの)」だったのではないか。物は古語で武器を表すが、精霊とか魂魄という意味もある。また、壱岐には物部村があり、物部氏の祖神である経津主神を祭った「佐肆布都神社」(いずれも式内社)が2社もあった。

妄想すれば、渡来してきた物部氏の一族が壱岐に最初に着いたとき、この島で祖霊を祭ったのが「しょうも」の社であろう。
呼ばれ方は時代と共に変わっただろうから、最初はもっと違った名前だったのかもしれない。しかし、神社としての形を形勢する時は、「しょうも」と呼ばれ、その神を国常立神として祀る時に「聖母」という漢字を当てはめただけなのだろう。

それが神功皇后に変わったのは、先に述べた「壱岐神社誌」に載っていた「香椎宮」の勧請であろう。788年、八幡を勧請する時、同時に勧請された「香椎宮」は、国常立神を祀る「聖母宮」に勧請された。恐らく八幡が「本宮八幡」に合祀されたのと同様、「香椎宮」は「聖母神社」に合祀されたのであろう。「聖母宮縁起」「香椎聖母宮縁起」となっているのはそのためと妄想する。
しかし、壱岐は神功皇后崇拝の強い地である。いつしか「香椎宮」に祭られている仲哀天皇は消えて神功皇后だけが残り、元々祭られていた国常立神が神功皇后に乗っ取られたことで、神功皇后を聖母と呼ぶようになったのだろう。

元々、神功皇后を祭神としていた「兵主神社」は、「聖母宮」の祭神が神功皇后に変わる頃に、後に住吉大神となる表筒男、中筒男、底筒男に変わったと妄想する。聖母というからには、兵の主という血なまぐさい冠を避けたかったのではないか。
三神に共通するツツとは古語で星を意味し、この三神はオリオン座の三つ星と言われている。住吉大社に3つの社が並んで建てられている様子はまさに三星の様相を呈している。
神功皇后の三韓征伐に限らず、星は航海には欠かせない。東の水平線にオリオンの三つ星が垂直に並んで上がり、水平な三つ星になって西の水平線に沈む。古来、この星が航海の際に目印になっていたのは間違いない。故に、住吉大神は航海の神として祭られるようになった。三韓征伐で航海の守り神として祭られただろうが、その三神が兵を率いる兵主神社の祭神になるとは思えない。
やはり、壱岐で兵主といえば神功皇后しか思い浮かばない。






阿多彌神社の謎

阿多彌神社は長崎県の壱岐嶋 勝本町立石東触にある神社である。(地図

延喜式神名帳」(927年)にある「壹岐嶋 小一座 阿多彌神社」に比定されている。
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現在の祭神は「大己貴神(おおなむち)」と「少彦名神(すくなびこな)」だが、これは橘三喜が勝手に決めた神であり、古来から祭られていたわけではない。

勝本町史」には、

文政八年(1825年)祠官松永石見の時代に茅葺の上屋を造営し、大正十年(1921年)社殿境内を整備した

とあり、各書物での記載内容が列せられている。

壱岐国神名記」(1679年)は、

立石村、阿多弥神社、小、改以前は山神と言、式外

とある。
壱岐国神名記」は延宝の改を不服とした吉野氏(壱岐国を統率していた壱岐氏の末裔)が著したものであり、「壱岐国神社誌」(1864年)などはこの書を参考にしているが、著作経緯を考えても鵜呑みにしてよいかどうか迷うところである。
わずか半年ほどの滞在で所在不明となっていた壱岐の式内社12社を決めてしまった橘三喜のやり方に不満があるのだろう。橘三喜が吉野氏に相談もせずに勝手に決めたのか、それとも吉野氏と相談して結論を出したがそれが気に入らなかったのか、当時の記録がないため内情は探りようがない。


壱岐国神社帳」(成立年不明)は、

コトノサカ阿多彌神社、小神、二十四座ノ内、定祭九月十九日、古来鎮座年数知らず、延宝四年木鏡御正体一面、石額を献ぜらる

「コトノサカ」というのが地名を示すのか社名を示すのか分からない。ただ、コトノサカといえば熊野神社に祭られている事解男命(コトサカノヲノミコト)を連想する。

壱岐国神社考」(成立年不明)は、

立石村の琴之坂山で、石神、山神といわれていた。社伝も定例の祭典もなかったが、近くに「アタミ畑」という地名があり、この地名から式内の阿多彌神社とされた

とあるが、「壱岐国神社誌」(34コマ)には「壱岐国神社考」をもう少し詳しく述べている。


「立石村の琴之坂山に石神とて(または山の神と云)社殿もなく定例の祭典もなかりしを其南百餘間の地に「アタミ」畑あり、依て此地名に因みて石神を式内の阿多彌神社とせり。しかして祭神を大己貴命、少名彦命とせるは此二神が力を合わせて天下を経営し蒼生及畜産の為に療病の法を定め鳥獣昆虫の災異を掃はむがために禁厭の法を定めしに由るものなるべし、(中略)、「アタミ」畑は昔蘇の族生せし地にして「アザミ」が「アタミ」となれるのみ、社號に縁故なし」

今の阿多彌神社を祭る南に「アザミ畑」があり、それがなまって「アタミ畑」と呼ばれていたので、橘三喜は間違えてそこを阿多彌神社としたと推測している。


壱岐国神社誌」には私見として、

「村の宗廟熊野権現は湯之本温泉に近き故湯屋権現なるべき理なり。阿多彌は地名を以て社號とせしものと見ゆ、峰の熊野権現はそれなるべし

とあり、「アタミ」は「熱海」のように温泉に関係すると考えられることから、村内にある熊野権現こそが阿多彌神社である、と言っている。

壱岐国神社誌」の熊野神社の項に、温泉を祭る神社なので「湯屋」権現とよばれ、「ゆや」の漢字が「熊野」と当てられたのだろうとしている。

熊野を「ゆや」と読むのは読めないこともないが少々無理がある気がする。
ただ、アタミ神社といえばやはり温泉を祭る神社であることは間違いあるまい。アザミを祭るという方が無理がある。
地図を見ると、確かに湯之本温泉のある場所からは熊野神社の方が圧倒的に近い。
阿多彌神社01

また、熊野神社のすぐ近くには、壱岐で第二の大きさを持つ対馬塚古墳があり、古い時代では中心地であったことが分かる。熊野権現阿多彌神社であるというのは頷ける。

壱岐国惣図打添」(成立年不詳)は、

「立石村、阿多彌神社、式内二十四座之内、祭日九月十九日、祀官松永石見、祭神大己貴命、少彦名命、嵯峨天皇草創、神宝木鏡一面、石祠延宝四年六月源鎮信公御奉納」

とあり、嵯峨天皇の時代(786年~842年)に創建されたとあるが、創建に関するはっきりとした記載があるのはこの「壱岐国惣図打添」だけであり、何を根拠にしているのか分からない。他の書物では創立年不詳としているので、適当に書いたか他の神社と間違えたのであろうか。ただ、延喜式神名帳に載っていることを考えれば、この時期に創建されたというのは頷ける。

壱岐名勝図誌」(1861年)には、

「当社は事の坂山石神と称して社も祭る事もなかったが、延宝四年の式社改の時、北の方に「はたみ畠」といふ名があることから、あたみとされたがどうだろうか」

とあり、「壱岐国神社考」では南にあるといっていた「アザミ畑」を北にある「はたみ畠」となっているが、「壱岐国神社考」の内容を略しただけであろう。

壱岐神社明細帳」(明治時代の神社明細帳か?)は、

「立石村事坂鎮座、阿多彌神社、但式内、無氏子(中略)社地 七畝九歩半、無税(後略)」

とあり、橘三喜の説を踏襲している。


では他の書物を見てみよう。

神社覈録」(579コマ)(1870年)では

祭神詳ならず。立石村に在す。壱岐略誌では土俗天神と称す

とあり、ほとんど情報が無い。土俗天神と称するというのは「水神社」でも云われており、「神社覈録」独特の表現のようだ。

太宰管内志」(下巻401コマ)(1841年)には、他の書物では書かれていない情報が書かれている。


「阿多彌は阿曇の磯良丸を祭れる故の御名と聞ゆ。
(注釈:磯良丸は阿曇磯良。海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神。「八幡愚童訓」では『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』とある)
「壱岐図説」に阿多彌神社 立石村 許等坂にあり。祭神大己貴神 少彦名命。石祠酉戌向き(西北西)(中略)文徳天皇仁寿元年辛未(851年)正月庚子詔授 正六位 陽成天皇元慶元年(877年)丁酉九月廿五日、物部・中臣両氏、大嘗会供奉、八年甲辰八月十六日、大中臣氏人を参らせ大嘗会を行わせる。朱雀天皇天慶三年庚子、崇徳天皇永治元年辛酉七月、高倉帝治承四年庚子冬十二月、後鳥羽天皇元暦二年乙巳春三月三日、各一階増」


とあり、前半は「勝本町史」に書いてある内容を全否定している。「阿多彌」が安曇氏の始祖神である磯良丸(安曇磯良)であるとし、石清水八幡宮の縁起である「八幡愚童訓」を呼び出して磯良丸は志賀海大明神であり、鹿島大明神、春日大明神、天児屋根命と同神であると言っている。

安曇氏は一般的には地祇系氏族とされており、天孫系の鹿島や天兒屋根命と同神であるとは考えられない。wikiにもあるように「八幡愚童訓」は元寇における八幡神の活躍を宣伝するために寺社が脚色した書物のため、鵜呑みにできない。

恐らく阿多彌が安曇氏の祖神であるというのも、「あたみ」→「あつみ」→「あずみ」と考えて安曇氏としただけであろう。
後半の「壱岐図説」は他の文書と同じく、立石村許等坂(コトノサカ)にあるとしている。その後に中臣・物部の両氏が大嘗会を行ったとか神階を上げたとかあるが、中臣・物部の両氏が大嘗会を行ったという記録は「
日本三代実録」(276コマ)にあるが、中臣・斎部の両氏であり、全国3134神の大嘗会を行ったとあり、「阿多彌神社」のみに行われたものではない。神階を上げたという記録はどこからの情報か不明。


太宰管内志」は突拍子もない説を載せているが、やはり「阿多彌」は「温海」と考えた方が自然だろう。そうなると、アタミ畑にあったという橘三喜が比定した阿多彌神社は本来の阿多彌神社ではない可能性が高い。


では、「壱岐国神社誌」の私見である熊野神社はどうであろうか。
熊野神社も勝本町立石東触にある(地図
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参道の階段は長い
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勝本町史」には旧称が熊野権現、熊野神宮と呼ばれていたこと、祭神が伊弉册尊、素盞嗚尊、事解男神、速玉男神であることが書かれているだけで、詳しい説明は呼ばれている書物に委ねている。

「壱岐神名記」は、

熊野権現宮、小、改める以前は式内

とし、相変わらず橘三喜の比定した神社を否定し続けている。


壱岐国神社帳」は、

「峰、熊野権現、本社、古来勧請年知らず、宝殿拝殿あり、神主堤主水」

とあり、事実のみを述べている。

「壱岐国神社考」は、

「立石村の海辺に温泉あり、よって昔の代には地名をアタミといへり、今は湯野本という、伊豆国にも熱海という温泉あり、すなわち村の宗廟熊野権現は温泉に近ければ湯屋権現にして、紀州熊野の湯の如し、之を以て熊野権現は式内の阿多彌神社なるべし」

とあり、熊野神社が式内・阿多彌神社であるとしている。理由が紀州熊野の湯のようだからというのは意味不明だが、熊野を「ゆや」と読むからということだろうが、この説を採った「壱岐国神社誌」でもこの部分だけは削除している。


「寛政十一年巳未正月改壱岐国中人別帳」には、

「社領高壱石、熊野権現、立石村、祀官十八神道、松永丹宮、年四十七才」

とあり、寛政11年(1799年)の状況を説明している。


「壱岐神社明細帳」には、

「立石村、宗社、熊野権現、国中五十座之内、祭日九月廿九日、祭伊弉册尊、事解男神、速玉男神、勧請年月知らず、神宝霊剣一振、元禄九年(1696年)以来社領一石、毎年祭日御代拝御社参」


としてこれも事実のみを述べている。

「壱岐名勝図誌」(1861年)には、

「壱岐国続風土記からの引用として。当社は紀州熊野大神と同体で天神七代の神であるとし、古老の説として昔、熊野大神が垂水に御着船になり、まず浜石に腰をおかけになり、そこから今の社地に向かわれたという。また、一説では紀州熊野山より熊野権現が鯨伏郷の足海にお着きになった時、本宮和泉守橘貞兼がおまつりしたという。一説では、橘貞兼が高麗出陣の折、戦勝を熊野にいのり、無事帰朝の後、熊野より勧請して立石村の宗社としたといい、一説には布城の主が勧請したともいい、また上川に住んでいた立石氏の勧請ともいう」

壱岐国続風土記」は、平戸藩主・松浦誠信の命により、壱岐国天手長男神社の宮司であった吉野秀政が島中を視察して1744年に完成した地誌である。当時伝承されていた伝説や言い伝えをつぶさに調べたのであろう。
古老の説である船で着いて石に座って休んでから社地に向かって鎮座したというのは「壱岐国続風土記」の「水神社」にも似たような伝承が伝わっていると記載されている。水神社と同じく、熊野神社も元は渡来系の神を祀っていたのかもしれない。
橘貞兼が祭ったとか橘貞兼は高麗出兵後に勧請したというのは全く脈絡がないように見える。
橘貞兼は源頼光の四天王のひとり、碓井貞光の父と言われている。平安時代中期の武将であるが、橘貞兼が壱岐に来たという伝承も高麗に出兵したという伝承もないことから誤伝であろうが、英雄の伝承を加えたいなら頼光四天王の碓井貞光本人にすればよいのに、なぜその父という微妙な設定にしたのか。

妄想すれば、最初は渡来系の神を祀り、その後は有力者がそこに熊野権現を勧請したといことではないだろうか。

渡来系の人々が渡ってきて、温泉の湧くこの地で体を休め、その近くに居住区を作って温泉自体を神聖化して祭ったもの、それが「熱海神社」であろう。祭神は温泉の湯そのもの。
そして修験道が入ってくるようになり、荒廃して社名不明となっていた「熱海神社」を熊野神社とし、祭神は熊野権現と同じになったのではないだろうか。










水神社の謎

水神社は長崎県の壱岐島 勝本町布気にある神社である。(地図

「延喜式神名帳」(927年)にある「壹岐嶋 小一座 水神社」に比定されている。
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現在の祭神は「速秋津日神(はやあきつひのかみ」。伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)から生まれた神で、日本書紀では水戸神、水門の神としている。

壱岐の神社を語るのに欠かせないのが橘三喜である。
橘三喜は肥前国平戸(今の長崎県平戸)の出身で、平戸藩主・松浦鎮信に仕えた国学者である。彼が記した「諸国一宮巡詣記」は全国で一宮参拝が始まるきっかけになったといわれるほど影響力があった。
延宝4年(1676年)、藩主・鎮信より命を受け、長い間不明となっていた壱岐の式内社調査を行った。江戸時代初期には延喜式に記された「大四座 小八座」の合計12座の神社のほとんどが所在地不明になっていたが、三喜は現地まで足を運んで島中を捜索して12座全てを再興させたのだ。これを延宝の改という。
現在も島内で式内社を名乗ってる神社は全て、橘三喜が比定したものである。

これだけ見ると彼の功績は大きいが、神社の比定方法にはかなり無理があった。
彼は神社の場所を土地名からしか査定しなかったようで、ほぼ全てが強引に決められたものである。たとえば天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は「たなが」から「たなか」に訛った田中の地にあるはずだと田中と呼ばれる地で神社跡を探しまくり、小さな祠を見つけてそこが天手長男神社だと決めつけた。
また、当時から大社であった本宮八幡社や白沙八幡社などは一切見向きもせずに式内社に比定していない。
当時の状況ではなく、あくまで地名からしか神社位置を査定しなかった橘三喜の比定した神社は当時からかなり疑問視されていたが、藩主がお墨付きを与えたものだから、誰も間違っていると声を上げることができなかった。
しかし、現在では1社を除いてほぼ全てが否定されている。


だが、しかし、橘三喜が壱岐12座の神社を査定した功績は称えねばなるまい。壱岐島は対馬と同じく元寇で島内が灰燼と化した。そこで神社の痕跡を見つけるのは難しいであろう。現在のようにネットで情報が得られるわけでもない江戸時初期期に、土地名くらいしか手がかりが掴めなかったのも確かであろう。



さて、その橘三喜が式内社・水神社と比定したのが現在の水神社である。橘三喜は鎮座地が「水の本」という地から水神社と比定したようだ。その時、祭神も速秋津日命(ハヤアキツヒノミコト)と勝手に決めた。

橘三喜が水神社と比定する前は、布気天神天満天神などと呼ばれ、祭神は罔象女命(ミツハノメノカミ)だった。

速秋津日命罔象女命も水に関係する神だが、速秋津日命は主に水と海の狭間、川の河口部の神であり、罔象女命は耕地の灌漑用の水の神という意味あいが強い。
耕地が少なく、交易で生計を立てていた壱岐の国柄からすれば、船の往来に関係する川の河口部を祭る速秋津日命の方がしっくりくるから、橘三喜もそう考えたのであろう。


「勝本町史」には、

「鎮座の年は不明であるが、文徳天皇の仁寿元年(851年)正月に正六位上に叙され、以後、神階を進められた」

とあり、各書物での記載内容が列せられている。

ちなみにこの神階は「文徳天皇実録」(4コマ)にある、

「庚子。詔。天下諸神。不論有位無位。叙正六位上」

のことであろう。つまり、今まで神階のあった神もなかった神も、全員に正六位上に叙するという詔であり、水神社自体に授与されたものではない。

では、「勝本町史」に記載されている内容を順番に見てゆこう。


「壱岐神社明細帖」(明治時代の神社明細帳か?)には、

「立石村、湯之本之内百三十九戸氏子、社地、二反四畝二十二歩(約630坪)、無税地、造営民費」

とある。立石村は今の水神社のある布気村の南にある村で、そこの湯ノ本地域が氏子であったとあるが、立石村には熊野権現があり、隣の布気村にある水神社の氏子だったとは思えないが、かつては立石村にあった神社を遷座したということだろうか? 


「壱岐名勝図誌」(1861年)には、

「当社元ハ天神と称せしを、延宝四年(1676年)式社改の節、水本という地名に依て、神名式の水神社なりとす」

とあり、元は天神と呼ばれていたが、橘三喜による延宝の改によって式内社・水神社になったと述べている。
「壱岐国神名記」(1679年)には、

「布気村水神社、小、改以前は天神と云う。式外」

とあり、布気村の水神社は延宝の改以前は天神と呼ばれ、元々は式内社ではないと言っている。
「壱岐神社誌」(1864年)はこの説を元に橘三喜の比定した水神社を否定しているが、この「壱岐国神名記」は延宝の改を不服とした吉野氏(壱岐国を統率していた壱岐氏の末裔)の末裔が著作したものだ。延宝の改を否定することから始まっているから、信頼がおけるかどうか。

そもそも、橘三喜の調査の際に吉野氏は協力しなかったのか、それとも橘三喜に断られたのか。妄想すれば、地元の有力神社の神主の意見は鵜呑みにできないと橘三喜が協力を拒み、恨みに思って書物を記した可能性が高いのではないか。橘三喜の正確や調査方法の詳細が分からな

い以上、答えはでない。

「神社書上帳」(成立不明)には、

「布気村の産神也、祠官並に長寿院の僧一同に初祈祷相勤候事」

とあり、布気村の産土神であったとしている。

他にも「壱岐嶋図説」、「寛政十一年巳末正月改壱岐国中人別帳」、「壱岐国惣図打添」が呼ばれているが、どれも布気村にあって速秋津日命を祭るとあり、橘三喜の延宝の改で比定された情報がそのまま載っているだけだ。


では、他の書物を見てみよう。
「神社覈録」(1870年)では、

「祭神罔象女命(考証、水分神という。今従わず)。布気村に在す(壱岐略誌)。土俗天神と称す(式社考)」

とある。布気村にあるというのは変わらないが、罔象女命(ミツハノメノカミ)を祭っているとある。延宝の改以降はどの書物も橘三喜が決めた速秋津日命(ハヤアキツヒノミコト)を祭るとしているのに、「神社覈録」では理由は不明だが罔象女命を祭っているとしている。
(神名帳)考証では水分神とあるが、これは速秋津日命の子に当たる。これも橘三喜の決めた速秋津日命が元になっているのだろう。式社考の土俗天神は、地元の天神というような意味であろう。


太宰管内志(下巻401コマ)(1841年)には、

「御名は水に由有て負せたるべし。「壱岐図説」に布気村の水本という所に速秋津日を祭る水神社あり。(中略)後奈良天皇大永七年(1527年)丁亥年八月御霊形を再興し奉る、其の銘に曰く、奉講再興天満天神御神體之事、于時大永丁亥年八月日、本願主右京助同宮方主各々等、七條之末流宗久、(相殿の御靈形也)」

とあり、「壱岐図説?」という書を呼び出し、相殿に祭られていた天満天神を再興したとある。大永七年(1527年)は橘三喜の延宝の改(1676年)の150年も前で、その頃は天満天神と呼ばれていたようだ。


これと同じ記述が壱岐国神社誌(32コマ)(1941年)にもあるが、「壱岐国神社誌」は、さらに別の情報を載せている。

「古来、鎮座年数不詳ナレドモ嵯峨天皇弘仁二年(811年)冬十月朔日平旦 日輪ノ神勅ヲ承ケテ御鎮座ト伝フ。是、すなわち布気村ノ産土水神社ニシテ神位ヲ進メラル。(中略)
後奈良天皇大永七年(1527年)丁亥年八月御霊形を再興し奉る、其の銘に曰く、奉講再興天満天神御神體之事、于時大永丁亥年八月日、本願主右京
助同宮方主各々等、七條之末流宗久、(相殿の御靈形也)
 明正天皇寛永八年(1631年)辛未八月、御殿造替ヘ。其ノ上棟ノ文に云フ謹奉再興水神社宝殿一宇之事、皇国万歳太上天皇玉体安穏天祚千秋宝延長武運長久子孫繁昌国土安寧領内安全諸人快楽 寛永八年(1631年)辛未八月吉祥日 伏願専新大旦那松浦肥前守源朝臣隆信 代官 日高拾衛門」


とあり、創建を嵯峨天皇弘仁二年(811年)としているが、問題は明正天皇寛永八年(1631年)の記載だ。寛永八年(1631年)は橘三喜の延宝の改(1676年)の50年ほど前になるが、その時の再興した棟札には水神社とあることだ。
大永七年(1527年)に相殿の天満天神の御霊形を再興したとあるから、水神社は相殿に天満天神を祭り、一般的には相殿に祭られる天満天神と呼ばれていたということになる。

そうすると、橘三喜は天満天神と一緒に祭られている水神社の痕跡を見つけ、天満天神と呼ばれていた神社を水神社と比定したのだろう。祭神の秋津日命としたのは、「日本書紀」の一書に、川と海の接する河口部の神、水門神等を速秋津日命と号すとあることから、海に流れ出る川の上流にある水神社の祭神を速秋津日命としたのであろうが、延宝の改以前は罔象女命を祭っていたと多くの書で述べられ、さらに壱岐島内にある当社を勧請したと思われる水神社の祭神は全て罔象女命のため、祭神は罔象女命だったのだろう。


棟札があるとなると、橘三喜の比定は間違いないように思えるが、特選神名帳 (451コマ) (1876年)では橘三喜の水神社を否定している。

「明細帳長崎県式内社記には立石村とあれど、壱岐式社所名徴には半城邑(壱州廿四座記、承応社記、吉野公光記、神社考等の所みなこれに同じ)。また、牛方水上(式社略考)とあり、式社沿革考にも旧記悉く半城邑(手形と記るも同村の所名)とあれば、同邑大屋の水上二座は式なる水神社の旧社地にして同村宗社妙見宮に遷座奉るか?
延宝以前当社を以て式内と称する時は水神社ならんとみえたれば、立石村にはあるべからず。また、布
気邑なる天満天神を水神社と云る事は、延宝四年橘三喜の旧藩の命を奉じて定めたる由なれども略考に神体銘に奉謹再興天満天神御神体の事于時大永丁亥年八月日、本願主右京助同宮方主各々等、七條之末流宗久宗久とある上は、布気邑あるも誤れり故今とらず」

「壱岐式社所名徴」、「壱州廿四座記」、「承応社記」、「吉野公光記」、「神社考」等には、水神社は半城邑にあると記載されているから、半城邑にある河原神社神社の旧社地だとしている。

現在はこの河原神社が水神社の元宮という説が一般的になっているのは、この「特選神名帳」の記載によるものだろう。
河原神社は、平戸藩主が代々崇敬していた壱岐十七社にも含まれている神社だ。ちなみに、水神社は壱岐十七社に含まれていない。
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特選神名帳」で水神社は各文書では全て半城邑にあると書いてあるので、半城邑の大屋にある水上二座の神社が水神社で、妙見宮に遷座していたのではないかと言っている。そして布気村の天神は主殿に水神社を祭っているという棟札があるが、それは何かの間違いだと思うので採用しないとしている。

ただ、これもいろいろ疑問がある。「特選神名帳」で根拠として挙げられている文書は探したがひとつも見つからない。公的な文書ならば紛失したとしても痕跡くらいは残っていそうなものだが、全く見つからないのはほとんどが私文書であるからだろう。

また、なぜ延宝の改の橘三喜の調査の時にはこれを参照しなかったのか。「特選神名帳」は橘三喜のように現地調査をしているわけではなく、残されている文書から推察しているだけなので、このような文書があれば、島を直接訪れている橘三喜が延宝の改の時に参照していそうなものだが。

二座とあるのも気になる。延喜式の水神社は一座であるため、二座が祭られる水上二座の神社は水神社である可能性が低い。

さらに言えば、妙見宮のある場所は壱岐郡ではなく石田郡に当たるため、壱岐郡の水神社の可能性は低い。ただ、平安時代の郡の位置が江戸時代の郡の位置と同じとは限らないので、絶対とは言い切れない。

特選神名帳」の書き方では、半城村の水上二座水神社の元宮であり、妙見宮へ遷座したと言っている。この妙見宮というのが今の河原神社であるが、いまは水神社の元宮が河原神社であったと伝わっているようで、ここにも祖語がある。
恐らく、水神社の元宮が河原神社というのは誤伝であろう。「特選神名帳」の記載を信じれば、いまの河原神社の西方一体にあたる牛方という地域に水上二座の神社があり、それが水神社ということになる。

現在の牛方には河原神社以外には正八幡神社と海田神社があるが、水上二座がどの神社なのかは分からない。


妄想すれば、半城村にあった神社は「水上神社」ではないだろうか。そこで祭られていたのが、
罔象女命(ミツハノメノカミ)速秋津日命(ハヤアキツヒノミコト)の二座だったのではいだろうか。

水上二座の神社や河原神社には他に伝承などは一切残っていないようだが、現在の水神社には神社創設時の伝承が残っている。

「壱岐続風土記」(1742年)では、海から来た神が来たという言い方がされており、壱岐が朝鮮半島と日本との橋渡しの地であることを考えれば、技術をもたらした渡来人であると推定される。

壱岐国は「魏志倭人伝」では農耕地は少なく、交易で生計を立てていたとあるが、少ないながら耕地はあったようだ。その技術をもたらした弥生人を祭ったのが水神社ではないであろうか。
それならば、水神社の祭神は当初は渡来人を祭っていたが、時代が下って大和朝廷の支配下に入った後に、耕地の灌漑用水の神である罔象女命(ミツハノメノカミ)に変わったのではないか。


妄想すれば、現水神社こそ延喜式の水神社ではないだろうか。延喜式に載ってる神社の多くは伝説的な伝承が残っていることから、個人的には橘三喜の比定の方が正しいと思う。


蛇足として、水神社の旧社地の場所を推測してみた。


「壱岐名勝図誌」(1861年)には、水神社のある布気村の由来として、「壱岐続風土記」(1742年)の記載を呼んでいる。
鬢掻瀬03

「村を布気(ふけ)と名付たるよしは、此の村の宗社の神、むかし木落浜(きおとしはま)といふ所に着せ給いて、今の布気川まで上らせ給いて、夜更(よふ)けたりと の給いしより、布気の名起れりとぞ云い伝えける」
「里俗(里の慣わし)に伝え云う、此の神、村の未申(15時)木落浜(きおとしはま)に著舩(舟で現れる) し給いて、石に御腰をかけさせ給い、御鬢(
おびん)を掻(かき)給いし、其の石前に出たり。其の所より風早岡(かざはやおか)に到まして休み給い此の岡は鬢掻瀬(びんかきぜ)を 去こと八十八間(160m)。それよりいでまして小川の渡りにて夜更たりとの給。故に時の人其の所を名付けて ふけ川という。是より一村の名
となれりとぞ。今は布気と書く。それより巽(南東)に射辻という所に至りまして、 下津岩根に瑞御殿を太敷く建て鎮まりまします」
「その風早の辻より更け川まで一百七十四間、それより射辻の 影向松まで一百二十間ばかり、それより古社の礎まで 七間、其の地東西廿八間、南北八間余。其の山東西三十六間、南北二十二間、周囲一百壱間余。今に山中に古瓦多し。然るにいちはやくして、海上の通舩(かよいふね)帆を下し、敬せざれば神祟り給。故に今の水本山(に遷し奉るとぞ」


概略すると、
水神社に祭られる神様は、夕暮れ前に木落浜に船で現れて、鬢掻瀬(びんかきせ)に腰掛けて髪を整えた。その後、160m先にある風早岡に向かい、さらに小川を渡るときに夜が更けたので、この川を布気川と名付け、村の名前となった。そしてそこから南東の射辻というところに移り、下津岩根という所に美しい宮殿を建てて鎮座した。
しかし、海上を通行する船が帆を下ろして敬いの態度を見せないと祟りをもたらしたので、水本山に遷座した。


つまり、水神社の元宮は射辻というところにある下津岩根ということになる。
木落浜は現在は埋め立てられて昔の面影はほとんどないそうだ。場所はの湯本湾の最奥にあたる。公民館の前には鬢掻瀬の石があることから、かつてはもっと奥まで海が迫っていたのであろう。
鬢掻瀬01
鬢掻瀬02

風早岡は「壱岐名勝図誌」(1861年)では、

「東は布気川・射辻に続き、南は湯本の立石村との境にある」


とあり、布気川は、

「水元の井より出て五十七間(約104m)未申(南西)に流れ、布気川に至る。それより壱町四十間(約182m)南にながれ、新城田のあたりにて綿打川におちあう」
「高山 布気川の南」
「高山 布気川の南 高山里 矢保左祠」


とある。そして旧社地は、

「風早の辻より更け川まで一百七十四間(約316m)、それより射辻の 影向松まで一百二十間(約218m)ばかり」

とあり、今の地図を見ると矢保佐神社があることから、この北を布気川が流れていたのであろう。風早岡の東に布気川があること、風早岡は、

「滄海はるかに見え渡り、もっとも佳景の地なり」

とあることから高台になっている場所と思われる。
まとめると、鬢掻瀬より160m(方位不明だが東と推定)に風早岡があり、そこから316m(方位不明だが東と推定)に布気川があり、そこから南東に218mの高台の地が射辻(旧社地)と思われる。
水神社地図2


この地より南は立石村に当たるため、まだ村という区分けのなかった時代は立石村の人も氏子になっていたのかもしれない。「壱岐神社明細帖」に立石村とあるのはこのためではないだろうか。




片山神社の謎

片山神社は名古屋市東区にある神社で、延喜式神名帳にある「山田郡 小一座 片山神社」に比定されている神社だ。(地図
以前はすぐ近くの片山八幡と共に式内社・片山神社の論社だったが、いまは何故かこちらの方が式内社と称している。

片山神社 (1)

祭神は蔵王権現(ザオウゴンゲン)、安閑天皇(アンカンテンノウ)、国狭槌命(クニサツチ)


安閑天皇は27代天皇で、尾張出身の尾張目子媛と26代天皇・継体天皇の長子だ。次代の28代宣化天皇は弟にあたる。

継体天皇は元々は皇位を継ぐ立場になく、地方の領主のような立場だったが、先代の武烈天皇に皇太子がおらず、他の親族も他界していたため、遠縁の継体天皇が即位した。
しかし、即位すると正妃だった尾張目子媛は正妃から降ろされて武烈天皇の姉を正妃とし、宣化天皇には子供がいたにも関わらず、以後、皇位は武烈天皇の姉との間にできた欽明天皇とその子が継承している。

この時、朝廷と尾張目子媛(尾張氏)の間に跡目争いがあったのは明白であろう。

妄想すれば、継体天皇も宣化天皇も天寿を全うして亡くなったのではないだろう。そんな悲運の孫を悲しんで尾張氏が安閑天皇を祭る社を作ったとしてもおかしくないが、それなら弟の宣化天皇も祭るはずであり、この社の他、安閑天皇を祭る社がないことから、安閑天皇を祭っていたとは思えない。

一般的に安閑天皇は神仏習合の際に蔵王権現と同一視されていたため、明治以降に神仏分離されると、蔵王権現を祀っていた蔵王安閑天皇を祭神としている。

従って、蔵王権現を祀っていた社は安閑天皇を祭神に変えている可能性が高いため、恐らく片山神社も当初は蔵王権現を祭り、明治以降に安閑天皇が加えられたのであろう。


なお、安閑天皇蔵王権現と同一視したというのも蔵王権現の正式名称・金剛蔵王権現の「金」と安閑天皇の諡号である「広国押武金日天皇」の「金」が同じだからというたわいもないものだ。

「和漢三才図会」(1712年)や本朝諸社一覧(1685年)には、

安閑天皇が崩御して4年後の宣化天皇3年(540年)、蔵王権現の総本山・金峯山に広国押武金日丸(安閑天皇)が現れ、「蔵王権現は安閑天皇である」と告げた

と、もっともらしい伝承が書かれているが、役小角が金剛蔵王権現を感得したのは西暦650年頃であり、安閑天皇の没年(536年)から100年以上後であることから、明らかに後の創作であることが分かる。

もう一柱の祭神・国狭槌命(クニサツチ)の方はもっと複雑で謎だ。
尾張志(1844年)では片山神社の祭神をクニサツチとしており、蔵王権現とはしていない。
「尾張国式社考」(江戸末期)では、


此社、国狭土神を祀る由、神主・森盛之言り、いかにあらむ

とあり、神主がこの社の祭神はクニサツチだと言っているとしている。

蔵王社の祭神が蔵王権現だという認識が江戸時代以前の尾張にはなく、蔵王社と呼ばれていた社の祭神がクニサツチでも不思議には思わなかったのかもしれない。

国狭槌命(クニサツチ)は「日本書紀」では天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第二の神となっており、「古事記」では山の神・大山津見神(オオヤマツミ)と野の神・野椎神(ノヅチ)から生まれた神の一人となっており、扱いがかなり違う。

クニサツチを単独で祀る神社はほとんどなく、たいては神代七代の7柱の一つか、山を祀る神の配神とされている。
調べた限り、クニサツチを単独で祀る式内社は兵庫県にある色來神社くらいだ。ただ、こちらも本来は別の祭神だと思われる。

だが、名古屋で国狭槌命(クニサツチ)を単独で祀る神社がある。新栄にある八王子社だ。

八王子は一般的には天照大神(アマテラス)と素戔嗚(スサノオ)の間に出来た五男三女神を指すことが多いが、日吉神社が神仏習合で山王権現となり、その中核となる七社を山王七社権現と称した時、八王子山に祀られていた牛尾宮が八王子権現と呼ばれたことから、八王子社といえば五男三女神かクニサツチのいずれかを祭る社とされている。

八王子権現山王七社権現の第四宮だが、本宮の奥宮であり、上代はこちらが日吉神社と呼ばれたというから、本来は日吉神社の祭神である大山咋神(オオヤマクイ)が祭神となるべきだが、「日吉社神道秘密記」(1719年)に、

八王子は国狭槌尊で、崇神天皇の御宇に八十万神を引率して金大巌の傍に天降った

とある。
金大巌は近江国滋賀郡の小比叡の東山にある。つまり、日吉神社がある場所にクニサツチが降臨したので、日吉神社のあった八王子権現社では祭神がオオヤマクイクニサツチでごっちゃになっているのだ。


山王七社権現の一社だけが祀られるとは思えないが、かつては七社あったけど廃れて一社だけとなった可能性もあるし、突然、どこからか勧請された可能性もある。
そもそも新栄の八王子社も、「寛文村々覚書」(1670年頃)には記載がないのに、『尾張徇行

記」(1822年)には記載があるので、江戸時代中期頃に突然どこからか勧請されてきたことになる。

ただ、新栄の八王子社と違って、片山神社は古書では一環して「蔵王社」と記されている。

蔵王社と呼ばれて国狭槌命(クニサツチ)を祀る可能性もないわけではない。
御岳信仰の御嶽三座神の一座、八海山大頭羅神王が神仏分離で神社に祭られる時、祭神としてクニサツチを祀ったという。

御岳信仰も当初は蔵王権現を祭っていたというがら、当初は「御嶽山蔵王権現」が祀られ、祭神は御嶽三座神が祀られていたが、いつの間にか「蔵王権現」となり、祭神も蔵王権現となったが、三座の一座、クニサツチだけがなぜか残ったとなれば、蔵王社でありながらクニサツチが祀られていることになる。
祭神は恐らく当所はクニサツチで、後に蔵王権現を祭ったのだろう。


社伝では創祀を709年とし、一説では684年に役小角(えんののづぬ)が創建したとも伝わっており、「愛知県神社名鑑」でも同じことが書かれている。

役小角は686年に岡崎の瀧山寺の前身である吉祥寺を開基したと伝わっており、その後にこの地に来て蔵王権現を祀ったということだろうが、岡崎の吉祥寺では薬師如来を祀っている。
岡崎で薬師如来を祀る吉祥寺を建て、名古屋に来て蔵王権現を祀る蔵王社を建てたというのはおかしな話だ。

そもそも、仏教色の強い蔵王権現を祀る社が式内社になるとは思えない。
神仏習合で蔵王権現となる前はクニサツチだっただろう。それが片山神社と呼ばれたか、さらに式内社・片山神社だったかは分からない


片山神社は江戸時代以前から式内社・片山神社と称してしいたようだが、公的には認められていたとは言いがたい。

天野信景による尾張の神社研究書である「本国神名帳集説」(1707年)では「東杉村の蔵王権現が片山神社」と記しているが、天野は考証学的にこう述べただけで、「張州府志」(1752年)の前身である「尾張風土記」の編纂を藩主に命じられると、同僚の吉見幸和や真野時綱らの実証学的な手法を学んだといい、天野の死後に完成した「張州府志」では、

片山神社 蔵王祠 式内社というが伝承なく不明

とされている。
つまり、東杉村にある蔵王権現が片山神社だという証拠がなかったのである。

郷土史家の津田正生が尾張藩に献上した「尾張国地名考」(1816年)では、瀧川弘美の説として、

(式内社の片山神社は)大曽根八幡(いまの片山八幡)の社が是なり、社司は慶徳氏といい、この宮地は往昔の山田郡片山天神(祭神は大伴武日命)で元は大曽根村の産土神である。(中略)杉村の蔵王社が片山神社と名乗って式内社と言い始めたのは情けないことだ

として片山神社は今の片山八幡だと否定している。

瀧川弘美は尾張志編纂関係者8人のひとり、瀧川又左衛門かその縁者だと思われるが、調べても分からなかった。

さらに藩命によって編纂された「張州府志」の再調査結果である「尾張志」(1844年)でも、

国狭槌尊を祭る。式内・片山神社といわれているが、何の証拠もなく府志にも伝不明。この社は社家・森氏の遠祖が吉野にある蔵王権現社に参拝して勧請したとある人の家の記録があるとある人が言っていたという話が本当なら式内であるわけがない。既に社があったのを後に吉野から勧請して蔵王権現に変えたのではないか。しかし、地形が片山だからというのであれば片山八幡も同じ地形であるので、それで式内社とは言いがたい

として、式内の片山神社とは言いがたく、さらに蔵王権現を祭っているのは、宮司の森氏が吉野の蔵王権現を勧請してきたと言っている。

これに似た話は「金鱗九十九之塵」(1830~1840年頃)にも記載されており、

片山神社の本社は天津彦火瓊々杵(ニニギ)なり。神秘ありて国狭槌尊と申す。これは大和国三芳野の一宮、葛城金峯高鴨大明神と同座なり。ゆえに、片山神社の末社は富士浅間大明神なり。祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)でニニギの神后なり。第三の末社は白山大明神なり。祭神は菊理姫命でニニギの大祖母神なり。思えばニニギは神徳を国狭槌尊より伝えられた天照皇大神(アマテラス)と高皇産霊尊(タカムスビ)の孫神である。紀伊国の三熊野宮あり、大和国に三芳野宮あり。熊野宮の祭神は国常立尊(クニトコタチ)なので、芳野宮の祭神は国狭槌尊(クニサツチ)であるのは明白で、芳野と高鴨社と同体の当社は国狭槌尊を祭っている

としている。
大和国吉野郡の金峯神社は昔年、蔵王権現を祭っていたというからここからの勧請であろうが、葛上郡の高鴨神社の祭神は味耜高彦根命で国狭槌尊(クニサツチ)でも瓊々杵(ニニギ)でもない。
クニサツチを祭るのは、祭神の瓊々杵の遠祖先だからというのも全く説得力がない。

恐らく、金峯神社から蔵王権現を勧請してきた時、既に片山神社では国狭槌尊を祭っていたので、このような無理槍な解釈をして蔵王権現クニサツチの両神を祀ったのであろう。

やはり最初に祭られていた神がクニサツチで、その後、蔵王権現を相殿して祭ったのだろう


このように公的な史料では東杉村の蔵王権現片山神社というのは否定されていたが、一般ではやはり東杉村の蔵王権現片山神という認識だったようで、尾張藩士・高力猿猴庵(種信)が趣味で作った「尾張名陽図会」(1818年~1828年)では、東杉村の蔵王権現片山神社として紹介している。
尾張名陽図会_片山神社

尾張藩士で学者の岡田文園と枇杷島橋の橋守役の野口梅居が販売目的で作った「尾張名所図会」(1844年)でも東杉村の蔵王権現片山神社だと紹介している。
尾張名所図会_蔵王権現

そして明治になって尾張藩の公的な記録がなくなると、東杉村の蔵王権現片山神社だという認識が一気に広まる。

式内社を始めとする古社を考証した「神社覈録」(1870年)では、

片山は加多夜萬と訓べし。祭神詳ならず。山田庄東杉村に在す。今蔵王権現と称す

とし、「延喜式神名帳」の注釈書である「特選神名牒」(1876年)では、

天文宝永の棟札が共に片山神社となっているので當社が片山神社である証である

としている。
天文(1532年~1555年)は戦国時代中期、宝永(1704年~1711年)は江戸時代中期だ。

さらに、「名古屋市史」(1915年)には、

文和の棟札には片山神社、応永、文亀、天文、天正等の棟札には片山蔵王権現

とある。
文和(1352年~1356年)は南北朝時代中期、応永(1394年~1428年)は室町時代初期、文亀(1501年~1503年)は戦国時代中期、天正(1573年~1593年)は戦国時代後期だ。


さらに「名古屋神社誌」(不詳明治期か?)では、棟札は「天文三甲午歳十一月五日」の一枚のみで、他には陶製高麗狗(高九寸「文和正月片山神社」の銘有り」)とある。


これだけの史料で東杉村の蔵王権現片山神社と記しているが、逆にこれで矛盾が浮き上がった。

「特選神名牒」「名古屋市史」「名古屋神社誌」で片山神社の根拠としている棟札は各書でバラバラで、共通している天文の棟札も、「特選神名牒」では「片山神社」となっているのに対し、「名古屋市史」では「片山蔵王権現」となっている。(名古屋神社誌では神社名なし)。

決定的なのは、「名古屋寺社記録集」(成立年不明)だ。
これは大正時代に神社の棟札を書き記した資料だが、そこには片山神社の棟札として、天文、宝永、宝暦、延享、安永、弘化、天久、明治の8元号10の棟札が記してあり、それら全てが「片山神社」となっている。
宝暦棟札
天久棟札
天文棟札

これだけ大量の棟札があることを、当時現地調査していた尾張藩に当代の宮司が言わないはずがない。
明治期になっていきなりこれらの棟札が発見されたのは不自然過ぎるし、全ての社名が片山神社というのも不自然過ぎる。

妄想すれば、これらの棟札は全てとは言わないが、ほとんどが偽物であろう。

棟札の根拠がなくなると、尾張志などで記載のあるように、式内社・片山神社は東杉村の蔵王権現社か、大曽根村の大曽根八幡なのか区別するのは難しい。


では、大曽根村の大曽根八幡はどうか。
いまは片山八幡と呼ばれている。(地図
片山八幡神社02

前述した「尾張国地名考」(1816年)の瀧川弘美の説が詳しい。

(式内社の片山神社は)大曽根八幡(いまの片山八幡)の社が是なり、社司は慶徳氏といい、この宮地は往昔の山田郡片山天神(祭神は大伴武日命)で元は大曽根村の産土神である。元禄年中に瑞龍公(尾張藩二代藩主・光友)がある時、この社は何の神と尋ねたが里の人は誰も知らないという。そこで、吉見氏(名古屋東照宮の神官)に尋ねたら八幡だというので、造営して大曽根屋敷の守護神とした。村人は光友が八幡社を造営してしまったので、恐れ多いとして元々、そこにあった天道宮を産土神として(別に)祀ることにした。その後、杉村の蔵王社が片山神社と名乗って式内社と言い始めたのは情けないことだ

瀧川弘美は杉村の蔵王権現と張り合って適当な社を片山神社と言ったわけではあるまい。

金鱗九十九之塵(1830~1840年頃)には、大曽根村は元は片山村と呼ばれていたとある。
地形が山に近いのは、どちらかといえば片山八幡の方だ。

また、尾張国地名考」(1816年)で津田正生は、

大曽根八幡宮鎮座の年月詳ならず。国君瑞龍公 元禄八年初月本社を造替え。御正体は江戸高田の穴八幡を模し給ふ。山田即齋という者を江戸に下し穴八幡の神楽拍子を習い取しめ、神主・慶徳源之丞直規に教えさせ給ひし。瀧川氏蔵王の神主が片山の名を奪いしと心得て常に不快に思われて、強いて大曽根の片山にせられし

とし、瑞龍公が勧請してきたのは江戸高田の穴八幡だと書いている。
これは「尾張名所図会」(1844年)でも同様な記述が見えるが、海邦名勝志(1832年)では「男山八幡を勧請す」とある。男山八幡は京都の石清水八幡宮の旧称だ。

尾張藩主・光友が再建したのであれば、尾張藩の江戸下屋敷の近くにあった穴八幡の方が馴染みがあるだろう。京都の石清水八幡を勧請してきたとは思えない。

光友が再建したのは、光友が1693年に隠居する際、隠居場所として選んだ下屋敷(今の徳川園)が大曽根にあり、すぐ近くに大曽根八幡があったためだ。

瑞龍公が再建したという話は「愛知県神社名鑑」など他の書でも多く見られる。

肝心なのは、元々は荒廃して村人さえ誰が祭られているか知らないとなっていたところだ。

その誰が祭られていたか分からない神社を吉見氏(たぶん吉見恒幸)に尋ねたら「八幡」と応えたという。
なぜ八幡と分かったのか。
吉見氏は名古屋東照宮の家柄であり、尾張十社家の筆頭である。
何の根拠もなく「八幡」とは答えまい。

恐らく、吉見は八幡につながる何かを見つけたのだろう。八幡に変わる前、元々この地には「天道宮」が祭られていたという。

名古屋には天道宮や天道社と呼ばれる神社がいくつかあるが、天道という単語からか、天照を祭る神社が多い。
天照を祭るなら神明社だ。天道社に天照を祭るというのは後世で出来た慣習ではないか。

妄想すれば、天道は天袍のことであろう。
同じ春日郡の
別小江神社の伝承に、神功皇后が三韓征伐の折、鎮懐石を腹に巻いて出産を遅らせたという伝説があり、その鎮懐石を探してきたのが尾張国造稲植(イネタネ)で、彼は出産後も神功皇后とその子、後の応神天皇のお世話をしたので、帰国の際に神胞を頂いたという。
その神胞を安井の千本杉に祀ったというものだ。

安井というのは庄内川沿いにある村のことだが、たびたび氾濫を起こしていた庄内川の河岸に千本杉があったとは思えない。
名古屋市内で「杉」の多い地というのは片山神社と片山八幡のある「杉村」しかない。

恐らく、杉村(当時は安井の地)の千本杉と呼ばれた地に神胞を祭ったのであろう。
当時の杉村から大曽根の地形は今の清水あたりの入り海が干潟となって盛り上がった地になっていたはずなので、「潟山」になっていたから「潟山神社」もしくは「天胞社」と呼ばれたのだろう。
祭神は神胞を祭っていた応神天皇。


その後、欽明天皇32年(571年)、宇佐八幡に応神天皇が八幡神として降臨したという伝説から、応神天皇を祭る社は「八幡」と呼ばれるようになる。

妄想すれば、「潟山神社」もしくは「天胞社」は「八幡」と名を変えたかもしれない。
そしていつしか廃れ、1693年、吉見恒幸は「天道社」となっていたその社に応神天皇の痕跡を認めたのであろう。ゆえに「八幡」と答えたのではないか。


妄想すれば、片山八幡式内社・片山神社であり、今の別小江神社の伝承に残る応神天応の神袍を祭った神社なのではないか。

参考までに、尾張名陽図会の片山八幡(大曽根八幡)と
尾張名陽図会_大曽根八幡

尾張名所図会の片山八幡(大曽根八幡)
尾張名所図会_大曽根八幡

別小江神社の謎

別小江神社は名古屋市北区にある神社で、延喜式神名帳にある「山田郡 小一座 別小江神社」に比定されている神社だ。(地図
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現在の祭神は六柱、「伊弉諾尊 伊弉冉尊 大日靈尊 素盞嗚尊 月読尊 蛭児尊」である。これは、元々は六所明神社と呼ばれ、別小江神社とは呼ばれておらず、六所明神社の祭神をそのまま祭っているためである。。

名古屋市の北部には六所神社(六所宮、六社神社)と呼ばれる神社が6社あり、今は六所神社と名乗っていない神社も明治前までは六所神社と呼ばれていた神社も4社ある。つまり、江戸時代には名古屋の北部には六所神社(六所宮、六社神社)と呼ばれる神社が少なくとも10社あったことになる。

理由は不明だが、江戸時代初期頃に、既存の神社を六所神社(六所宮、六社神社)と変える何かの動きがあったようだ。

従って、「
延喜式」の成立した927年当時は別小江神社と呼ばれていた神社が後に六所明神社と変名されていてもおかしくはないのだが、それ以外にも、この神社は経緯が定かでないことが多い。

「尾張志」(1844年)では所在明らかにならずとあるが、その30年後に「
延喜式」の注釈書としてまとめられた「特選神名牒」(1876年)では、

浅野長政の父勝行が此村に住て大江八幡を祭りしとき社司稲垣某に奥へし免状の文に別小江神社其方は社人の事候間五百文餘令修造候云云 天正十二さる二月十五日勝行(花押)稲垣十太夫殿とあり是亦證とするに足れり姑く附て考に備ふ

とあり、浅野長政の父(義父)が六所明神社別小江神社だと断定しているので六所明神社別小江神社だと考えられると言っている。

浅野長政の実父は安井重継、義父は浅野長勝なので、浅野勝行という人物が誰か分からないが、なぜ長年所在不明になっていた別小江神社が六所明神社だと断定したのかも分からない。

戦国時代、今の別小江神社のあるあたりは安井城があり、城主が浅野長勝だった。浅野長勝は織田信長に仕えた武将で、豊臣秀吉の妻おねの義父である。

恐らく浅野勝行というのは浅野長勝本人の誤伝、もしくはその縁者なのだろう。
ただ、別小江神社と断定した根拠と理由が分からない。戦国時代に神社の由緒を調べていたとも思えないし、決定的な証拠があるとも書いてないのに数百年もの間、所在不明になっていた別小江神社六所明神社だとなぜ断定できたのか。

別小江神社自身も、六所明神として祀られている六柱の神、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)、天照大御神(アマテラス)、素戔嗚尊(スサノオ)、月読尊(ツクヨミ)、蛭児命(ヒルコ)が今の別小江神社の祭神としつつも、元々、境内の小社に祀られていた神功皇后を本殿に祀っており、この小社が別小江神社の祭神であるかのような扱いになっている。

これは、浅野勝行文書とは別に、別小江神社の起源と思われる伝説があるからだ。

神功皇后が三韓征伐の折、鎮懐石を腹に巻いて出産を遅らせたという伝説があり、その鎮懐石を探してきたのが尾張国造稲植(イネタネ)で、彼は出産後も神功皇后とその子、後の応神天皇のお世話をしたので、帰国の際に神胞を頂いたという。
その神胞を安井の千本杉に祀ったというものだ。

尾張国造稲植は、尾張国造・乎止与(オトヨ)の息子の建稲種命(タケイネダネ)のことだろう。

尾張国熱田太神宮縁起」(890年)では、タケイネダネは日本武尊(ヤマトタケル)の東征の途中で不自然な事故死をしている。しかし、事故死したのが別人で、彼が生きていたとすれば、かなり高齢ではあるが神功皇后の時代には尾張国造になっていただろう。

恐らく、これが別小江神社の起源と思われる。

神功皇后は存在していれば4世紀後半から5世紀初頭の人物なので、創建されたのは5世紀初頭と思われる。

さらに別小江神社の由緒板によると、「天智天皇治世の667年に、神功皇后と誉田別尊(ホムタワケ)(後の応神天皇)を祀る延奈八幡社を建て、それは後に延喜八幡社と呼ばれるようになった」という説明が唐突にある。

この延喜八幡社別小江神社の本殿に祀られている神功皇后の起源ということだろうか? 
だが、927年に成立した「
延喜式神名帳」には「別小江神社」とあることから、延奈八幡社別小江神社である可能性は低い。だが、これが先述した「特選神名牒」で浅野勝行が祀ったという大江八幡のことならば、これが根拠ということだろうか?

妄想すれば、5世紀後半にタケイネダネが千本杉に神胞を祀った神社があり、これが別小江神社だと思われる。
祀っているのは神胞をくれた神功皇后か神胞を纏っていたホムタワケ(応神天皇)、もしくは両方だっただろう。

そして667年に神功皇后応神天皇を祀る延奈八幡社が同じく千本杉に創建される。恐らく別小江神社から勧請して創建されたのだろう。以後、延奈八幡社にも別小江神社の伝承が社伝として伝わったと思われる。

延奈八幡社は後に延喜八幡社に変わり、その後、大江八幡となり、これが中世以降に創建された六所明神の境内小社として遷座される。
延奈八幡社に残る別小江神社の伝承が、六所明神の社伝と誤伝され、これを聞いた浅野長勝はこの神社が別小江神社だと断定したのではないか。

ただ、この場所が問題だ。

現在の別小江神社のある場所は、庄内川と矢田川が交わる南岸であるが、庄内川と矢田川はたびたび氾濫して流れを変えている。
現在、名古屋城のある場所は熱田大地と呼ばれる台地の北西端であり、そこから東に2kmほどにある大曽根までの北側は、庄内川と矢田川によって削られた低層地帯と言われている。
大曽根の曽根とは川の決壊でできた土地や自然堤防を意味し、つまり、古代は今よりずっと南を流れていたと思われる。

また、大曽根から3kmほど北にある味鋺(あじま)あたりは古墳時代の古墳が数百基もあったから、古墳時代(3世紀~7世紀)は味鋺は庄内川の北岸から少し距離があったのだろう。

しかし同地にある味鋺神社(延喜式神名帳で山田郡 小一座 味鋺(ミマリ)神社と呼ばれる古社)は庄内川の氾濫で資料が流出したという記録もあることから、平安時代にはかなり北上していたと思われる。

恐らく、熱田大地の北岸から3kmほど北までの間は、庄内川と矢田川が刻々と流れを変えながら時に氾濫していた場所と思われ、そこに神社を創建するとは思えない。

「愛知県神社名鑑」(1992年)では、

今の池を離る事壱町程東北の方千本杉と称する所に鎮座。天正十二年(1584年)織田信雄の命に従い今の場所に遷座

とある。
今の池というのが何処を示しているのか分からないが、千本杉というところにあったけど、織田信雄によって戦国時代に今の別小江神社のある安井村に遷座したというのだ。

今の池が今の地の誤字とも考えたが、今の地から壱町(100m)北東といえば、当時は矢田川の真ん中である。氾濫の多い矢田川の河岸に千本杉があったとは思えない。

しかし、今の別小江神社はこの説を起源としている。
別小江という文字から、矢田川と庄内川を分ける中島に別小江神社があったと考えられているのだ。そこから壱町南西に遷座したなら確かに今の別小江神社のある場所にあるが、川の中州の島に「千本杉」などという名前がつくとは思えない。恐
らく別の場所だろう。

1584年といえば、小牧・長久手の戦いがあった年だ。
織田信雄に神社を遷座するような余裕があったとは思えないが、「山田地区歴史年表」(2008年)を見ると、1582年に織田信雄が庄内川の堤防工事をしたとある。

本能寺の変後、尾張を氏配下においた織田信雄が指示したのであろうか。

しかし、そもそも庄内川の堤防工事で遷座したとは書いていない。千本杉という所にあったのを、今の地に遷座したとあるだけだ。

千本杉という地名はタケイネダネが神胞を祀ったという伝承にも出てくる。
やはり、ヒントはいずれの伝承にも出てくる千本杉であろう。

名古屋には「千本杉」と呼ばれる場所はないが、現在の別小江神社から3kmほど南下した清水あたりには、杉の字が多く使われている地域がある。
今の名古屋城と大曽根の中間あたりの熱田大地北岸であり、すぐ北は庄内川と矢田川に削られた低層地帯となっている場所だ。

明治時代の地図を見ると、ここは杉村と呼ばれていたようだ。
およそ1000年前、この杉村に千本杉という場所があったのではないだろうか。

妄想すれば、5世紀の安井の地というのはこの杉村あたりのことを指し、その後、庄内川と矢田川が次第に北上し、海面下降により入り海となっていた地が陸地となったことで、室町時代くらいに今の別小江神社のある場所が安井と呼ばれるようになったのではないだろうか。

従って、元々の別小江神社は杉村があったあたり、今の清水あたりにあったのではないだろうか。

この辺りはタケイネダネの尾張氏の領地である山田郡にあたり、本拠地としていた愛知郡の北端と接する。タケイネダネが神胞を祀ったとしてもおかしくはない。

杉村あたりに八幡を遷座できるような古い神社はないかと探してみると、気になる神社がありました。
それが片山八幡社
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片山八幡社はすぐ近くの片山神社と共に、延喜式神名帳の「山田郡 小一座 片山神社」の論社となっていたが、今はなぜか片山神社が式内社を名乗り、片山八幡社は式内社と同等の古社とされている。

片山八幡社の社伝によれば、

26代継体天皇の5年(511年)に尾張国山田郡片山郷(現在の社地)に鎮座。元亀、天正の世になり、元禄八年(1695年)尾張二代藩主瑞龍公(光友)敬神の念あつく、社殿を荘厳に造営す

とある。
継体天皇は元々、天皇位を継ぐ人物ではなく、越前を治める地方領主のような地位だったが、先代の武烈天皇に子供がいなかったため、紆余曲折を経て中央政権によって推戴された。

地方領主の時代の妃が尾張氏の尾張草香の娘・目子媛で、本来なら皇后になるところだが、朝廷の意向で継体天皇は武烈天皇の姉・手白香を皇后とした。
先々代天皇の血統を残したかったという理由もあるだろうが、おそらくは尾張の田舎者の娘を皇后にしたくないというのが大きかっただろう。

継体天皇は皇族とはいえ、15代応神天皇の5世孫で本流からかなり外れており、尾張氏は地方豪族。朝廷の権力構造には組み込みたくなかったはず。

目子媛には既に2人の子供がおり、それぞれ継体天皇の次代の安閑天皇と次々代の宣化天皇となるのですが、その次の欽明天皇は手白香の息子です。
そして天皇の血統は欽明天皇の子孫が受け継ぎ、安閑天皇と宣化天皇は息子がいるにも関わらず、歴史から抹消されてしまいます。
宣化天皇の子孫は臣籍に下ったようですが、安閑天皇の息子は完全に史書から抹消されています。

跡継ぎに関しては、朝廷で血みどろの権力闘争があったのでしょうね。

話がそれました。
別小江神社について、妄想を含めて時系列にまとめてみる。

①5世紀初頭、尾張国造・タケイネダネは、今の清水あたり(当時は安井と呼ばれた?)の千本杉に神功皇后から下賜された神胞を祀る祠を創建。祭神は応神天皇と神功皇后。すぐ北に入り海があったので、いつしか別小江(別入江)社と呼ばれた。


②6世紀初頭(511年)、娘婿の継体天皇が皇位に就いたことで、天皇の外戚となった尾張氏は、継体天皇の祖である応神天皇を祀って言祝ごうと、別小江社から勧請して応神天皇を祀る神社を創建。それが今の片山八幡社

片山の地というのは片方が山ではなく、恐らく潟山で、今の清水あたりの入り海が干潟となって盛り上がった地にあったのだろう。当時は恐らく潟山社と呼ばれたと思われる。

応神天皇は八幡神の化身といわれ、応神天皇を祀る神社は八幡社となるのが一般的だが、それは欽明天皇32年(571年)、宇佐八幡に応神天皇が八幡神として降臨したという伝説があるからで、当時は八幡という社名は付けられず、ただ潟山社と呼ばれていたはず。

そしてこの潟山社が「
延喜式神名帳」にある「山田郡 小1座 片山神社」だったのではないか。

③天智天皇6年(667年)、干潟が陸地となった場所に別小江社から勧請した延奈八幡社を創建。

この時、延奈八幡社にも別小江社の縁起が伝承が残ったのではないか。延奈八幡社は後に延喜八幡社大江八幡社と社名が変わるも、「
延喜式神名帳が成立した頃(927年)には廃れ、中世以降、六所明神の境内小社として遷座される。

そして延奈八幡社(大江八幡社)に残っていた別小江神社の縁起が六所明神の伝承と誤伝され、浅野長勝はこの神社を別小江神社と誤認した。

一方、元の別小江神社(別小江社)は平安時代の中盤頃には祭祀が途絶えて廃れ、祭神が同じということで近くにあった潟山(片山)神社と合祀し、片山八幡社と呼ばれるようになった。

片山八幡社は戦国時代には熱田神宮に預けられており、その後、尾張藩に尊崇されて名古屋城の鬼門にあたる北東に戻して造営したようだ。

戦乱の世に焼失してしまう神社も多いなか、わざわざ熱田神宮に預けるくらいだから、それなりの由緒がないとできないことだろう。

従って、今の別小江神社は本来の別小江神社から勧請したものだと妄想する。

先代旧事本紀

先代旧事本紀」(せんだいくじほんき)は「旧事紀」(くじき)「旧事本紀」(くじほんき)ともよばれる全10巻からなる歴史書。

天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されており、日本紀講筵に引用されていることから、成立したのは906年以前と推定されている。

作者も不明だが「尾張氏」と「物部氏」の系譜を詳しく載せ、特に物部氏の氏神社・石神神社について詳しく記載されているため、著者は物部氏と推定されている。

さらに詳しい説明は以下

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江戸時代に古事記研究の第一人者・本居宣長や水戸光圀に偽書と断定されたが、近年になって序文のみが後世付け足された偽作であるとされ、本文は研究対象となっている。
なお、本居宣長は日本書紀も否定している。

ただし、本居宣長は先代旧事本紀を偽書と断定しながらも、一部の文書はねつ造されたものとは思えず、今は紛失した書から引用されたものかもしれないとし、水戸光圀の水戸藩でも光圀が言ったから偽書だとしながらも、先代旧事本紀を歴史研究書として扱っている。

尾張国熱田太神宮縁起

尾張国熱田太神宮縁記」は熱田神宮の古い記録である。

貞観16年(874年)に尾張連清稲が古記の資料や遺老の語によって縁記の原型を作ったものを、寛平2年(890年)藤原村椙が補訂筆削。
その後、右大臣基房の命により尾張員信が家本を書写して延久元年(1069年)に献上したと伝わっている。

多くは「日本書紀」と「古事記」の記載を元に書かれているが、散逸した「尾張国風土記」ほか、伝わっていない書物からの引用もあったと思われるが、補訂筆削した藤原村椙と献上した尾張員信以外は年代が合わなかったり存在が認められなかったりするため、偽書扱いされることもある。


さらに詳しい説明は以下

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尾張国熱田太神宮縁記」が偽書とされる大きな理由は、年代と人物の齟齬である。

以下にその代表的な物を記す。

・原型を作った尾張連清稲は、熱田神宮に伝わる「熱田秘密百録」(1069年)、「熱田太神宮御鎮座次第本紀」(791年)などに登場するが、延暦期(782年~806年)の人物として書かれており、貞観16年(874年)に「尾張国熱田太神宮縁記」を記すには100才を越える長命でなければならない。


・「熱田秘密百録」には、尾張清稲は弘法(空海:774~835年)・伝教(最澄:766年~822年)を招いて問答を行ったと書かれ、それを書いたのは尾張員信で延久元年(1069)三月廿九日とある。二大師の伝記と照らし合わせると、これが明らかな虚説であることが分かる。
さらに、延久元年が始まるのは4月19日からであり、3月29日は治暦5年である。


尾張員信が献上した右大臣基房藤原基房であり、右大臣になったのが延暦2年(1160年)であり、延久元年(1069年)には生まれてもいない。



尾張員信は実在の人物だが、生年も死没年も不詳。
員信の孫・職子が藤原季兼に嫁ぎ、生まれた子が藤原季範であり、藤原季範の代で熱田神社の大宮司の職は尾張氏から藤原氏(藤原南家・千秋家)に乗っ取られます(実際は藤原氏は京都に居るので神社の祭祀、社領経営は尾張氏が実施していたと思われる)。
ちなみに藤原季範の娘・由良が嫁いだのが源義朝で、彼女が産んだのが源頼朝。
子孫の年代から逆算すると、1069年には生存していたと思われる。


確かにこれらを見るに尾張清稲だけは架空の人物と思われる。

ただし、右大臣基房に献上したというのは「尾張国熱田太神宮縁記」の最後に附記として記されているもので、写本によってはこれがないものもあることから、この附記は「尾張国熱田太神宮縁記」の格式を上げようとした虚言であろう。

また、尾張氏の家系は比較的明確であり、尾張清稲なる人物が存在しないのは確かだ。

従って、補訂筆削したという藤原村椙とそれを何者かに献上した尾張員信だけが年代もぴったりで存在もしている。

作者と年代が合っていないのは確かだが、内容が全て虚言であるとは言えない。「尾張国熱田太神宮縁記」には、散逸した「尾張国風土記」の逸文と思われる記載もあり、基本的には「日本書紀」「古事記」「尾張国風土記」を基準に書かれている。
問題は、明らかに藤原村椙が補訂筆削と思われる箇所だ。
これが、「尾張国熱田太神宮縁記」を偽書ではないかという疑いを持たせている。


個人的には、本来の「尾張国熱田太神宮縁記」は「日本書紀」「古事記」「尾張国風土記」、その他平安時代初期の書物などを元に書かれたものであると思う。
そこに、何かまずいことが書いてあると分かった何者かが改竄し、それをあたかも過去に書かれたものと装ったのであろう。
尾張氏がそんなことをする必要はまるでない。あるとすれば、尾張氏から熱田神社の宮司の位を乗っ取った藤原氏だ。

妄想すれば、藤原季範は宮司の位についた時に「尾張国熱田太神宮縁記」を見て、藤原氏にとってまずいことが書かれていたために改竄したのであろう。
彼は尾張氏のことは知らないから、改竄するにあたって既に故人となっていた尾張員信の名を使って実在の人物があたかも実際に書いた本物のに装い、「尾張国熱田太神宮縁記」ほかの資料を改竄したのではないだろうか。



荒穂神社の謎

荒穂神社は佐賀県の基山の南山麓にある神社である。(地図
荒穂神社参道
                 荒穂神社参道

荒穂神社
                  荒穂神社

延喜式神名帳には「肥前国 小一座 荒穂神社」とある。
現在の祭神は邇邇芸命ニニギ)。もしくは邇邇芸命五十猛(イソタケル)。
なぜか境内板には2種類あり、邇邇芸命は固定だが五十猛が含まれていたりいなかったりする。

境内板1
由緒
                 境内紹介板


境内板では瓊々杵尊(ニニギ)ではなく邇邇芸命(ニニギ)としているから「古事記」に準拠しているようです。

貞享元年(1684年)に書かれたと言われている「貞享縁起」(荒穂神社縁起)では、創建は孝徳天皇の御宇(646年~654年)とし、

国造本紀にある松津国造物部金連の後裔金村臣なる者が瓊々杵尊(ニニギ)を火国の鬼門の山頂に社を建てて奉仕したとし、日向の高千穂から遷したとも筑前の雷山から遷したとも伝わる

と「国造本紀」(平安時代初期)を引用している。

筑前の雷山から遷したというのは、今の福岡県糸島市にある雷山中腹に祀られている雷神宮からの勧請ということであろう。(地図
雷神宮の祭神は今は瓊々杵尊(ニニギ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、香椎大神(神功皇后(ジングウコウゴウ))、住吉三神、八幡神の五神だが、古くから雨乞い祈祷が行われていたというから、元は雷神を祀っていたのであろう。
雷神宮からの勧請であれば、荒穂神社も最初は雷神もしくは自然神を祀っていたに違いない。

松津国は一般的には肥前東部(基山のあたり)と言われている。
「先代旧事本紀」では、物部金連は仁徳天皇の治世(5世紀中頃)において松津国造になったとある。物部氏は神武天皇より先にヤマト(近畿地方)を支配していた天孫族で、邇芸速日命(ニギハヤヒ)を祖とする。

高千穂からの勧請というのは、金連が松津国造になった際に、隣の火国(熊本)との国境に、物部氏の祖神であるニギハヤヒからヤマトの支配権を奪った神武天皇の祖神であるニニギを祀ったということだ。おかしな話だが、既に神武系列の天皇支配が確立された世の中なので、背信の意図はないとして、自らの祖神ではなく、自らの祖神を追いやった現政権の祖神を祀ったということは考えられなくもない。

「神社考」(江戸後期と推定)の「荒穂神社雑記」には、

古老伝えて曰く、当社はもと城山にありて、三韓降伏のため乾の方角に向かって鎮座していたが、永禄年間(1558年~1570年)に大友宗麟の兵火にかかって今の地に遷した。しかし、この地に於いてもなお毎年風鎮祭を修し、旗を立てて吉凶を占うことがあった

とある。

城山とは基肄城のある基山のことだ。三韓降伏は、神功皇后の三韓征伐のことで、乾(北西)の方向に鎮座していたというから、方角的には三韓の方を向いていたということだ。風鎮祭りをしてきたというから、三韓征伐の際に風向きがよくなるように祭ったということであろう。
三韓征伐の時に創建されたならば、4世紀後半くらいだろう。
神功皇后は三韓征伐に先んじて、まず筑紫のまつろわぬ神(ヤマト政権に服従しない土着勢力)を討伐しているので、征伐軍はこのあたりまで進軍してきているはずであり、神社(祠)を建ててもおかしくはない。

つまり、元は三韓征伐の際に風鎮を祭った神社であり、後年になって物部金連が雷山から雷神を勧請したとなれば、風神と雷神を祭る神社で、つまりは農業に関する神を祀る神社ではなかったのだろうか。

ただ、大友宗麟によって兵火に見舞われたというのは1570年の今山の戦いのことであろうが、この戦いは佐賀城周辺の局地戦であり、佐賀城から30Kmも離れた基山に兵火が及んだとは思えない。さらに兵火に合う前は乾(北西)に鎮座していたというが、そこから今の基山南に遷るということは、わざわざ兵火の近い佐賀城近くに遷るということであり、遷座するにしては不適切だ。

恐らく、大友ではなく島津の侵攻であろう。島津は九州全土に侵攻したため、基山の北西で兵火に合ってもおかしくなく、その後、島津が敗走した後に南に遷座するのは妥当だ。

いずれにせよ、戦国時代に兵火にあって社伝は失われてしまったようだ。

「太宰管内志」(1841年)には、「基山に荒穂の神の跡と伝わる高さ二間(3.6m)ほどの尖った石がある。8月の祭りに風旗というものを立てる」とある。
尖った石というのは基山西峰山頂にある霊々石(たまたまいし)のことであろう。これが原初の磐座だと言われている。
基肄城_頂上
    タマタマ石(基山観光サイトより)

創建も伝も書によってバラバラだが、共通しているのは基山の山頂に祀られていたということだ。それ以外はどの書物も憶測しか記されていない。

「貞享縁起」には「山上の礎石郡は神社奉仕の僧坊の跡」とあるが、これはタマタマ石のあった西峰ではなく東峰のことで、東峰には仏谷など仏教寺にまつわるような地名が残っているが、ここに僧坊があったという記録が一切ないため、存在の有無自体が不明である。
だが、地元では明治中期頃まで、基山を「坊住(ぼうじゅ)」や「城戸坊住」などとと呼んでいたことから、僧坊があった可能性は極めて高い。


「日本三代実録」(901年)に貞観2年(860年)に従五位上から正五位下に叙階された記録されていることから、平安時代初期には中央にも名が伝わるほどに隆盛であったと思われるため、東峰に寺があれば神社奉仕をしていてもおかしくはない。

「佐賀県史」(1967年)では「基山に坐すところからみて、基肄城の守護神であっただろう」とある。
基肄城は白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に大敗した後、天智天皇が唐の報復を恐れて築いた山城のひとつである。
基肄城の守護神であれば、基山自体を神格化した名前、たとえば基山神社になるだろう。基山は古来、基肄之山、城壱所、木山、城山、基八間、椽の山城などと呼ばれているが、その名前から荒穂(アラホ)という読み方は出てこない。

アラホ神という土着の神の可能性が高いが、書物によっては五十猛命(イソタケル)とするものもある。

「貞享縁起」では「中 荒穂大明神 瓊々杵尊、左一 下鴨大神、左二 八幡大神、右一 宝満大神、右二 春日大明神、右三 住吉大明神、以上六柱」とあり、荒穂大明神=ニニギとなっている。


「太宰管内志」では「ある書」(作者が忘れた)と注記を引いて「肥前国基肄郡荒穂神社、五十猛を祭る也」とあり、祭神はイソタケル

「神社覈録(じんじゃっかくろく)」(1870年)では祭神不明。

「特選神名牒」(1876年)では「社伝では瓊々杵だが別神であろう」として祭神不明としている。

「神社明細帳」(1879年)では「祭神 天津彦火々瓊々杵尊(ニニギ)、配神 鴨大神、八幡大神、宝満大神、春日大明神、住吉大明神、五十猛」としておおり、「貞享縁起」と同じで祭神はニニギイソタケルは配神となっている。

「府県郷社明治神社誌料」(1912年)は祭神を瓊々杵尊とし、「天文年間大友氏の害にあいて社伝悉く消失。神官ご神体をもって今の地にきて鎮祀」とあり、こちらもニニギ。

「佐賀県神社誌要」(1926年)では、祭神を瓊々杵尊、配神を加茂大神八幡大神宝満大神春日大神、住吉大神、
五十猛命。

「筑前続風土記」(1709年)では、俗説では瓊々杵と云われているとことわってから、西峯老人が言うとして、かの地は神代に五十猛が天下って韓地から持ってきた種子を植えた場所であるとして、荒穂明神は五十猛神なるべし、としている。


こうしてみると、祭神をイソタケルとしているのは「太宰管内志」中にある「ある書」と「筑前続風土記」だけだ。恐らく、「太宰管内志」にある「ある書」というのは「筑前続風土記」であろう。つまり、「筑前続風土記」しか荒穂神社の祭神をイソタケルとしていない。しかも、これも西峯という老人から聞いたというだけだ。

ニニギが祀られているのは、ニニギが高千穂に天孫降臨する前、国見をするために基山に降臨したという伝説があるからだ。ちなみ一般的には国見をしたのは高千穂の国見ヶ丘と言われている。さらに、ここでは基山の西にある契山で木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)と契りを結んだという。

イソタケルはスサノオの息子であり、朝鮮から種子をもってきて日本中に植えたという伝説から木の神ともされている。筑紫にいた「人の命を奪う神」を倒したという伝説があり、その場所がこの近くと比定されている。ニニギもイソタケルも伝説でこの地に関連しているため、両神の伝承が残っているのだろう。

「貞享縁起」には、「四所別宮」として荒穂神社に関係の深い神社を載せている。北御門神、伊勢太神宮、阿良穂社、馬見大明神社だ。

北御門神は「基肄山北御門山荒穂和魂社別雷神太玉命」と注記があり、基肄城の北にある御門山に祀られている荒穂神の和魂であり、別雷神太玉命を祀っていたという。アラホ神の和魂がなぜ上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命と忌部氏の祖神・太玉命を祀っているのか理解に苦しむが、この神社のみ現存していないため、詳細は不明のままである。

伊勢太神宮は「在基肄郡小倉村伊勢山伊勢内外宮御同体神也」と注記があり、小倉村の伊勢山に、伊勢の外宮神(豊受大神)と内宮神(天照坐皇大御神)を祀っているという。この神社は基山町小倉に伊勢山社として現存している。(地図
「佐賀県神社誌要」の伊勢山社によれば、「天暦9年(955年)11月、時の縣主、伊勢神宮の分霊を奉祀せりと傳ふ。後荒穂五所宮の一として荒穂神社より神饌を奉れり」とある。
この社地は近年の発掘調査で5世紀後半頃の祭祀遺跡が確認され、基山を対象にした祭祀場と比定されている。今の基山駅の東600mほどの所にあり、妄想すれば荒穂神社の遙拝所ではなかっただろうか。
気になるのは「荒穂五所宮」とあり、「貞享縁起」の「四所別宮」より1つ増えている。だが、「佐賀県神社誌要」では伊勢山社以外に荒穂五所宮の記載がないため、他は不明である。

阿良穂社は「筑前国御笠郡武蔵村基肄山荒穂大明神勧請神」と注記があり、これは筑紫野にある天拝山中腹の荒穂神社と比定されている。(地図
「筑前続風土記」(1709年)御笠郡下の項にも、荒穂大明神として「此社は肥前国基肄郡宮の浦村の荒穂明神の社を勧請せり」とある。

馬見大明神は「加摩郡馬見郡荒穂大明神同体神」と注記があり、これは嘉麻市にある馬見山の馬見大明神(馬見神社)と比定されている。(地図
馬見神社の由緒によれば、

上宮の創立は不詳であるが、三千年前と云われる。馬見山山頂(987m)の頂上近くご神所磐の巨岩あり。ここ鎮座、瓊々杵尊は天孫降臨の御神で民族の祖比類なき神徳をもって尊崇

とあり、祭神は伊弉諾(イザナギ)、天津彦火々瓊々杵尊(ニニギ)、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の三柱。
馬見山には基山と同じく国見の伝承があるが。祭神のニニギかと思ったらなぜか邇芸速日命(ニギハヤヒ)の伝承であるという。
前述したように、「貞享縁起」では荒穂神社は、ニギハヤヒの子孫である物部金連が、一族を追いやった神武天皇の祖であるニニギを祀ったとしている。

恐らく物部氏がニニギを祀ったことで、このような伝承が生まれたのであろう。荒穂神社を勧請した神社がニニギを祭神としていることから、古来は荒穂神社ニニギを祀っていたと思われる。
イソタケルの可能性も否定はできないが、「貞享縁起」に附載する「當社恒例付録條々事」には基肄郡全域の祭祀組織が記載されており、その中にもイソタケルを祀った神社はない。

イソタケル説は、「太宰管内志」内で国学者の青柳種麿(種信)がイソタケルを祀る理由を力説しているが、人の命を奪う神をイソタケルが倒したと伝わる地がこの地で、近くの筑紫神社イソタケルが祀られているので、荒穂神社にもイソタケルが祀られているはずだ、というのがその大きな理由になっている。

しかし、この伝説には2つのパターンがあり、人の命を奪う神(人命盡の神)を倒したのは「筑紫君」と「肥君」という筑紫(今の福岡県南部と推定)を統べる者と肥(今の佐賀~熊本)を統べる者というパターンがある。
現在の筑紫神社の祭神はイソタケルだが、「日本三代実録」では貞観元年(859年)に筑紫神に従四位下を授奉とあり、当時は筑紫神、つまり筑紫君だったと思われる。ならば荒穂神社が「肥君」を祀ってそうなものだが、肥君に関する伝承は荒穂神社にはない。

いずれにせよ、荒穂神社はこの伝承とは無関係と思われ、イソタケル説は「筑前続風土記」の記載を参考にした「太宰管内志」の影響と思われる。ちなみに、イソタケル説を唱えた青柳種麿は、「太宰管内志」の編者である伊藤常足の師匠である。
邪推すれば、師匠の仮説を無視できずに記載したのではないか。

祭神はニニギの可能性が高いと思われるが、原初、タマタマ石を祀っていた時代は記紀に登場する神ではないだろう。
地元では荒穂の神は荒ぶる神性を持つ神として恐れ敬われていた。これは自然そのものであろう。

実際、今の荒穂神社には社殿の左後ろにニニギを祀る祠がある。祭神がニニギならば、わざわざ同じ境内に別の祠を建ててニニギを祀る必要はない。
ニニギ祠
             邇邇芸命を祀る祠


基山の麓は「宮浦」と呼ばれる。荒穂の神として祀られて隆盛であった平安時代初期、基山の麓は船が乗り付けるような場所だったのだろう。「浦」は海、湖などの湾曲して陸地に入り込んだ所を示す場合が多いが、水際なども浦と呼ぶ場合がある。
この辺りは海から遠いため、縄文時代まで下っても、この辺りが海であることはあるまい。しかし、実松川や高原川など今は小さな川が、当時はこれらがひとつになったような大きな川で山麓まで往けたのであろう。

山頂で風を祀る儀式をするのは、浦から出て海に行く船の安全を祈願したのではないか。

妄想すれば、アラホ神は筑前の雷山から勧請された風雨の神、「荒帆神」であり、天候、主に風を神格化した神ではないだろうか。



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